新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

コインランドリー

 

もうハーゲンダッツをコンビニで買うことにときめきを見出せなくなった悲しき23歳ですが、まだ街にはトキメキが残っています。

 

コインランドリーというものを初めて使ったのは、東京に越してきて始めの頃、まだ家に洗濯機がなかった(そしてその状態が半年間続き、引っ越した)ときです。およそ3日に一回、家の横にあるどえらい急な石階段を20メートルも登れば、続く細い道を歩き大通りに出るその角がコインランドリーなのでした。中はきれいでしたが設置されている機械は新しくなくて、投入する洗剤が、小さなプラスチックのコップ(50ミリくらいかな)に入れられて、入り口のそばのカラーボックスに、ご自由にどうぞ、と添えられていました。よく会う、痩せたおじいさんがいたのですが、かれなぞは、もうノールックで洗剤を取り洗濯物をおきまりの角洗濯機に入れ、200円を投入、1分もかからずにまた出て行きました。引き換えわたしはというと、いつも山盛り洗濯物を持って行っていたので、洗濯機がきちんと回っているかなと5分くらい水が溜まるまで待って、様子を伺ってから帰りました。

 

というのがもう4年前の思い出。

 

 

 

 

 

続きはもうかけへん。忘れました。

 

逃げられない

 

最近毎日、怖いものがあります。死が怖いです。自分が死ぬことは、全く怖くはありません。恋人の死について考えると、怖くて、怖くて夜な夜な眠れません。

いつかのメリークリスマスで、稲葉浩志が歌うように、人を愛するということに気がついたいつかのメリークリスマス、なのです。恋人がいなくなることが怖い。バイト先でこの曲が流れることがあるのですが、(しかも、普段は歌なしなのにクリスマスソングたちだけはなぜか歌入り)流れるたびに底知れない恐怖につつまれ、痺れる心臓と、早口にまくし立てる接客、商品を落とす、お釣りをゴミ箱に捨てる、など、など、完全に心を患っています。

 

それにしてもどうして毎晩毎晩そんなことを考えてしまうのか?決してわたしが重度にメンヘラなわけではない、ということは教えておきましょう。考えてしまう一番の要因は相手が10歳は年上だからということです。真面目に相手のことを評価すればするほどに、年上だという一点のみが暗い影を落とすのです。生物として、わたしよりも衰えているということを感じるたびにそこに死の影を見て怖いのです。かなりの確率でわたしよりも先に死んでしまうでしょう。それが怖いのです。どうしてあと7つか8つくらい若くなかったのかなと。無理なことばかりを考えて、毎晩頭からつま先まで冷える気持ちです。

 

親は

当然先に死ぬでしょう、おばあちゃんは言わずもがなでしょう。自分と同じ時代を生きんとす人間に死の影を見てしまうことほど怖いことはないです。わたしもやはり、死にたくないのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

わたしのてのうちに

 

わたしはとてもビビリで、ナルシストなので、なるべく自分にまつわる全てのことは、自分の手の届くところで決定されてほしいし、自分の好きな時に決定したい。他人に決定の責を求めることが怖くてできない。相手に対しては全く失礼なことだろう。いつも申し訳なくなる。よくもこんなに傲慢に育ったと感心する。

 

友人から姪の写真が送られてきた。生まれたばかりという赤ちゃんがあまりにも可愛くて心臓が入り口のあたりで締められた。ちょうど家への帰り道、赤ちゃんのことを考えていたところだった。たまに考える自分の赤ちゃんについて、きっとこの上なく可愛らしくて、この世の全てが支配されることになる。おばあちゃんになって一人ぼっちになることもない。子供に手編みの服を着せてあげるところを想像したりする。でも自分の妄想は最も良いところだけをつなぎ合わせたものにすぎないから。辛いことがあってもそれを上回る幸せがあればいい、そういう考え方はどだい受け入れられないことは、今まででわかっているから。自分の子を持つなどという恐ろしいことはできないだろうなと。子を持つことを恐ろしいと、狂気の沙汰だと、いっときの気の迷いだと思うような人間が子を持ってはいけないんだよな、といつもの結論に達するだけである。そうして、わたしの心体は枯葉と同じ速さで地面を駆けずり回る。

 

 

整理整頓

 

 

恋人が寝返りをうつ、私の方に背を向けてころがっている。そんなどうしようもないことに肝が冷え、そっと後ろから背をなぜる。こちらを向いてくれないので、悲しくなって静かに泣いてしまう。そんなことがよく起こる。

 

手を繋ぎにいくと、暑いと言って振り払う。また私の心が小さく、小さくなって行く。いちいち大げさに騒ぐのはいけないと、わかっているからきっと我慢して、後から思い出して泣く。

 

映画のエンドロールが苦手だ。長い。映画館に行けば最後まで見ないといけないような気がしてじっと座っている。すると、小さい頃から何度も何度も私を苦しめるお馴染みの、なぜ人間は存在するのか問題がやってくる、今もきた。もうこれ以上かけない。終わりにします。

 

ビスコ

 

 

品川駅のホームから彼が車内へ乗り込んだ時、彼の席にはすでに人が座っていた。彼が最も苦手とする若い顔の良い女で、ヒールを履いた足がギラついている。彼も十分に若く、容姿も人並みか、それ以上のものではあったが、きちんと化粧をした女に話しかけることは怖かった。そのような臆病さを持つにも関わらず、まだ顔を見ぬ乗客のことはてんで恐れないようで、堂々と通路を挟んだ女の斜め前の席に座った。彼の豪胆はこれだけではない。もし今座った席の真の乗客が現れた時には、通路に立ち上がり彼の女の極悪非道を大衆の下に糾弾してやろうと意気込んでいるのである。新横浜駅が待ち遠しい、そんな気持ちで口元を緩めていた。

 

 

思考が飛ぶ。小売業について考え始めた。特に、品出しについて。学生の時分、コンビニでアルバイトをしていたことがあった。その時のことを思い出している。箱パッケージのお菓子などを並べる時に、商品の表が2面あるお菓子を大変重宝した。ということを誰に伝えればいいのだろうか、毎回このことを考える。もっと、表が2面ある箱物商品を増やして欲しい、という要望を誰に言えばいいのかを一生懸命考えている。今は小売業に関わっていないし、この先仕事にするつもりもないのだけれど、自分が商品陳列界の代表であるかのような、真剣さ、それ以上の真剣さでいつも悩んでいる。意味のない広告を減らしてその分そこを表面にすれば、、表を、表にして並べることができないから在庫になっている商品を山ほど見たから、きっとこれは、メーカーの利益にも繋がるはずだ、こんな簡単なことなのに、誰に教えてあげればいいんだろう。都心では特に有用な情報のはずなのに。

 

新大阪に着くまで、彼の席には誰もやってこなかった。