新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

価値観

 

タイトル打つときにかちかんの変換候補一個目に価値感がサジェストされて驚きたまげました.

 

欲求を充足させるために私たちは遊ぶ.例えば絵を描いたり,かわいい服を買ったり,本を読んだり,する.遊ぶこと自体は必要だし,むしろ遊んでばかりいる私がどうこう言うことは全くないのだけれど,自分が遊んだ結果を見せることを職業にすることについて考えることがある.

 

過激な表現にはなるし,恥ずかしいことを言うと,“遊び”を,そのなかでもとりわけ自分が楽しめない“遊び”をしてみせることを職業とする人間を肯定することができない.遊んでいるようにしか見えないんだ.

 

作家,学者,俳優,モデル,みんな等しく遊んでいるだけなのに,どうして他人から評価されるのかがわからない.気持ちとしては文学作家,学者,漫画家あたりの自分が楽しめるものはまだ肯定できる.

 

ここまで書いてわかったけれど,遊びは個人の自由に任せられた物だから何を偏重しなにを軽んじてもそれこそわたしの自由なのか.じゃあいいや.

 

自分のこの態度は問題ないとみなしたので,この先に進むと,あとは個人間におこる問題と,商品として世の中に出ている“遊びの結果”模倣問題(適当に名付けた)が残ったように思う.なんとなくすでに解決した気がするけど一応すすむ.

 

一つ目の個人間に起こる問題っていうのは,私は俳優さんにそれほど興味がない,といったときとかそれ以外にもよく起こるけど,たいていの人間から与えられる,え~〇〇もしらないの~というやつが死ぬほど気にくわないというだけのことです.逆にじゃあてめえ夏目漱石の本何か一冊読んでう,うつくしすぎる~ってなったことあんのかよ.あったら同士だねっ!人の評価の対象に偏りがあるって言うだけだから,幸せに暮らしたかったら評価対象が似たような人と仲良くすればいいだけの話だな.解決.でもそれって自分の興味の対象を自分で狭めてるみたいな気もして悲しいきもするしなんなんだ.

 

二つ目にかいた“遊びの結果”というのは,いわゆる職業として“遊びの結果”を世に出している人たちから我々が手に入れられる物のことを指していて,それのまねごとをしている人のことが嫌いという話.いや君ブログ書いてますやん,とお思いでしょう.それはそうなんですが,ここでもやっぱり評価対象の偏りをかんじるんだ.もはやただの愚痴だけど.おしゃれっぽい写真,かわいい顔した女の自撮りが偏重される世の中がもう最悪だよ.と私はたまーにそういう気分になって落ち込んでしまうだけ.表層的な部分に自信がなくて,そのくせ表面を飾り付ける方法には興味がなくて,ひたすらに自分が正当評価されていないと不満を募らせる悲しい人間になってしまいそうになる.けどこれも,自分に求める評価をくれる人が周りに少なくとも数名はいること,それを信じて気持ちを満たすこと.支持者を増やすべく,さらに何事かを学ぶことを意識すれば改善される.

 

以前友人が,君は自分の見た目より中身を見ろっていうけど,それは自分の内面に自信があるから言えることだ,と指摘してくれたことを思い出して,私はかなり元気になれるようになった.言われるまで気がつかなかったことにおどろいたけど,真実だと思った.多くの表面的なつきあいをする他人が内面を評価対象に入れていなかったとして,自分自身が自己の内面を不当に軽んじる理由にはならないと言うことにこの年になって初めて気がついた.自分がどれだけ他者からの評価に依存しているのかを知った.まだまだだめだなあという感じ.

 

話が相変わらずぶれぶれだな.