新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

いちづけ

 

自分の好きな人に対して、私たちは好意を伝える方法をたくさん持っています。ひとつに、他人との差別が挙げられます。友達、親友、恋人、家族と、関係性に名をつけること。そしてその関係の下、さらに差別化を計る。笑いかける、ともに出かけ、手をにぎりしめる、約束をする、同じものを好きになる。最近わたしがずっと、ウンウンと考えているのは差別化の最たる例であるセックスについて。

 

私は、セックスに対して肯定的な気持ちを持たない。まず大切なのは、これからの話は全て精神の話であり、肉体とは関わりがないということです。物心ついた頃から高校生の時まで、性行為は禁忌だと、恥ずべきもので、軽率に行うべきものではないと教育を受けてきたわけです。当然それを真に受けていたわけではなく、当時のわたしも様々に考え、一つの真実にたどり着いていました。たしかに性行為は精神の堕落です、それが快楽のために行われる限りは。しかし、それが、子供を成すために行われるのであれば、確かに目的を持った、有意義な行為であると言える、と考えました。今もそう思っています。子供を成すことが良いか悪いかは別だけれども。ただ、快楽を得るための性行為ならば、相手が恋人であるかどうかは倫理を外せば関係ないと考えていましたが、先日、友人が、恋人以外とセックスした場合、体は気持ちよくても頭が気持ちよくないと言いました。わたしの彼氏は好きだからセックスしたいと思うと言います。そこのつながりがわかりません。セックスできるから好きなのか、好きだからセックスするのか、それをしっかりと考えた上で言っているのかしら。

わたしのセックスに対する暗示は、うまくはたらくこともあります。基本的には、相手への自己犠牲精神の表明手段として位置付けます。相手が望むもの、ことを全て叶えるよう努力することが愛を示すために有用な手段だと考えているので、セックスも、相手がしたいと思うのであれば叶えてあげようと臨むのです。終われば、よかったね、と愛しむ気持ちになれます。これがうまくいかない時には、今日もわたしは消費されてしまったのだなと、破滅的な気持ちになります。相手を憎んでしまうこともあります。真実の愛を示してよ!と、責めるような気持ちになってしまいます。1人で泣きながら布団にもぐります。

でもよくよく考えてみればこれはわたしの至らぬところで、相手をきちんと信じていないだけなのです。相手が愛を示すためにセックスしたいと言い、その言葉と行動が一致しているのであれば、わたしは変に勘ぐることなく、それを信じていればいいのです。彼はわたしが好きだからセックスしたいと思う、つまり、二人の世界では、セックスは愛の証左であると、認めてしまえばいいだけなのです。このことに気がついた時から、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

世の中と、私たち二人の世界は、繋がっていないということを忘れてはならない。