新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

いつか

 

わたしのおばあちゃんは、わたしが高校生の時から(8年間だったか?)老人ホームに入っていて、そのおばあちゃんがどうも長くないと言われ、5月末わたしは大阪へ帰省していた。

 

大阪に帰って、次の日におばあちゃんのところへ行った。施設の人が、今日は意識ありますよと、調子いいですよと、教えてくれたので、期待して部屋に入ったが、おばあちゃんは酸素の管を鼻につけて、酸素濃度、心電図をとられていて、私の方をチラッと見た目は左目が濁っていた。去年の夏、来たときにもすでにあまり話ができなかったが、その日は、もう笑ったりすることさえなかった。左足がとても冷たくて、手も体も薄くて、笑わないおばあちゃんは、おばあちゃんと思えなかった。私のおばあちゃんは、爪が紅くて、唇が紅くて、いつもカチューシャをつけて、笑う太い指で私を抱きしめて、よく喋る。話しかけても言葉を返してくれないおばあちゃんに、なにを言えばいいかわからず、とりあえず、今のおばあちゃんのことを記憶に残そうと思って、顔を触ったり体を触ったり、手を握ったり形を確かめる私と、おばあちゃん、○○で××で〜と、話かける妹が対照的であった。私は、妹は介護の才能があるなあと思ったりしていた。はっきり言って私はもう怖かった。おばあちゃんに聞きたいことは苦しいことや痛いことはないかということだけで、もうはやく楽になればいいとだけ思っていた。毎晩血圧が200まで上がり、生死の境をうろうろしていると聞いていたから。

 

早々に帰ったわたしが、次におばあちゃんの家に行こうと母に誘われたのは2日後の土曜日で、あまり気乗りがしなくて断った。その日の夜におばあちゃんがもう本当にダメかもしれないと連絡が来て、父が原付で先に行った。私たちはタクシーで向かった。ついたときにはおばあちゃんはもう亡くなっていて、父の言った、手にぎっどった時に魂が抜けてってしもたわ、という言葉にそっか、と思った。死んでしまったおばあちゃんの口が開いてしまうのを、母がずっと押さえて閉めてあげていた。わたしは死んでしまったおばあちゃんはもう、仕方ないので、顔を忘れないようにしっかり見て部屋を出た。父のイトコを中心とした親戚が10人ばかりも集まって来ていて、東京から来た珍しいわたしに絡んでくるのではやく帰りたかった。母とわたしはずっと2人でスマホをポチポチ式場を探していた。

 

おばあちゃんはしんだ、それはもう仕方のないことで、悲しいは悲しいけれど、悲しいだけ。それよりも雑務が多すぎて、辟易とする気持ちが大きかった。おばあちゃんの兄弟は5人いて、もう最後1人だけになってしまったおばさんが、どういう気持ちなのかが気になった。自分は妹より先に死にたいなと思った。おばあちゃんを骨にする前に、写真を撮った。口紅を塗って、死化粧したおばあちゃんはわたしの知ってるおばあちゃんの顔になっていたので、ちょっと泣きかけた。

 

新たな恐怖が生まれた。おばあちゃんがしんだから、当然次は親なのだ。母方の祖父母はまだ元気だから、この恐怖もまだ影を潜めているが、いざ彼らが亡くなったときには、果たしてわたしは怖さに耐えられるだろうか。母が亡くなって、父が亡くなって、私たちが死んで、世界が終わる恐怖がくる。はやく、はやく子供を産まないと、と思った。赤ちゃんを連れて来たいとこのことが、心の芯から妬ましかった。

 

おばあちゃんの荷物を整理して、可愛い服と可愛いカップをもらった。わたしが昔に書いた絵が少し出て来たので回収した。どんな手紙にもいつも、またご飯食べにいこうね、買い物しようね、と書いていたわたしに比べて妹が敬老の日に書いた手紙が優しすぎた。いつかおばあちゃんがとしをとってしんでも、わたしのことをわすれないでね。なんて優しい言葉を7歳かそこらの子供がかくのかと、この言葉を思い出すたびに泣いている、今も。

 

その妹は今年社会人になった。おばあちゃんのお葬式の終わっておちついた5月30日、妹の初任給で明るく道頓堀のすしざんまいに行った。みんな、時の流れを感じたとおもうよ。