新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

とらわれ日光浴

 

新学期を迎え、心が新しくならない。なにも変わらない、今年はまだ誰も送らない。新しい顔として、高専からの編入生がやって来たけれど、一定の距離以上に踏み込んでくる&ゆきたいパッションは感じない。わたしは塞ぎ込む、常ならそうだ。でも今年は少し違う。毎朝いきがけに、コンビニで野菜ジュースを一本買うほどのやる気がある。構内に入って、緑になった葉っぱを透かして太陽を見る元気がある。留年したので、なにもできることが増えないけれど閉塞感がない。

他人のために頑張ると言う他力本願ジョブの私は、期待されることがないと落ち込んでるのかもしれない。わたしがしっかりした人間であることを、期待されている限り、それに応えることがやりがいであり生きる歓びになって来た、という自覚はある。だからバイトも結局大好きだし、頼られることも好きだし、それこそ好意ある人に何かを要求されれば可能な限り満たしてあげたいという気持ちがある。

今の環境を見直すと、大学生の生態を知らない人と付き合っていて、彼のひとの想像する限りの大学生、大体は忙しくて朝から授業で、課題がたくさんあって、、、これをこなす自分を見せることを要求されているように感じる。そのために4時半に寝たって10時半に登校できる。バイタリティに溢れる自分を要求されているように感じる。寝てなくても遊びに行けるし、バイトもいっぱい頑張れるし、相手のことを大好きでたまらない女を演じられる(?)。まあ、このスタンス自体は毎回変わらず、これが本当の自分の気持ち、性格なのか?と疑うことを繰り返して来た今までだけれども、今はまだそこまで来ていない。数ヶ月後が恐ろしくもあるが、今回は行けるという謎の自信もある。

疲れて来たら休憩するっていうことを許してくれる相手は貴重だ。わたしも優しく、他人のしんどさを見守る人間になりたい。

 

 

 

頭の中が知りたい

いま、私が大好きな人の話をしようと思う。

頭がメルヘンなので、生のイチゴを食べて心を鎮めたい気持ちしかないんだけど、生憎昨日から手に入れそびれているので、もうそろそろ文字にしないと限界。

その人は結構年上の人で、私のことを大好きと、毎日欠かさず、口に出す。本人いわく、生活の8割を私が占めているらしい。そしてそれも嘘じゃないとわかる。意味することはつまり、彼の生活が単調で、生活範囲が狭いと言うだけのことなんだけど、そのわかる感じが気持ちよい。嘘じゃないことが言動の端々から溢れ出ている。こんな風にすればいいんだとわかった。

なんで?が口癖で、私の説明を何十分でも聞いてくれる(ただしアホなので、理解できるとは限らない)。私のなんで?も20回くらい説明してくれる。何か言えば何か言い返して来る。楽しそうにしたり、落ち込んだりする。わからない言葉を私が使えば、どう言う意味?ってきちんと聞く。教えた漢字は次から読めるようになるし、ことわざも覚えてくれる。一緒にご飯を食べる時には、いただきますとごちそうさまを言うようになった。今度はお箸の持ち方を頑張らせる(これは私も)。大人になってもこんなにきちんと素直にあることが、バカバカしい事ではないと分からせてくれる貴重な人材である。

 

先日、遊びに行く予定を立てた。2ヶ月くらい先の予定をあまりに一生懸命に立てる。私はその時ちょうど眠たくて、イライラもあらわに、なぜそんな先の予定を今立てる必要があるか?と聞いた。すると、俺は早めに予定立ててずーっとワクワクしてたいの。とのお言葉。マジモンの天才がここにいるよ、ママ。これは後世に語り継ぐべきだし、ポジティブなモチベーションの作り方を知った。私は絶対に思いつかないもの。

 

何時間でも話に付き合ってくれるし、彼についてのことで病んでいても本人にその謎をぶつけることが怖いと思わないので無敵。私の病みを真にはわかってないと思うけど、日本語にしようと努力を感じるし、本当しかしないってことがわかるから、こちらも努力する気持ちになる。

 

病んだ時はこれさえやれば、人に会えるくらいまでは回復するって言うものを見つければいいと言われた。それな。早く見つけたいわ。今のところ、寝て、時が経つのを待つことしか知らない。彼は誰もいない川で1人で釣りをすると復活できるらしい。

 

学がそんなになくて、私と比べても、会話の引き出しがそんなに多くもないはずの人間と、毎日話すことがあって、それなりの答えが得られるのは、長生きしてるから、それだけではないと思う。私が毎日うにうにと考えてイライラして感動して病んでを繰り返していることも、無意味じゃないのかもと感じさせてくれるところが一番いいのかもしれない。

 

その3 ルールを破った日

 

記憶の中、意図的でなく、おうちルールを破った初めては、幼稚園の修了式かなにかで半日終了の日に、友達数人とそのママたちに誘われて、うちのママ、妹も一緒にマクドナルドに行った日。当時私の家では子供が炭酸飲料を飲むことは禁止されていた。歯が溶けちゃうからという理由だったと思う。ほんとにとけるのかどうなのか未だに私はわからない。ともかくその日、私は友達Kちゃんのコップを間違えて手に取り、口に含んだ。勢いよく炭酸飲料を口に入れたことはなかったけど、何のことはなかった。おいししいものだと思った。そのまま知らん顔して2,3口飲んでやろうかしらんとしたが、のどを通った瞬間に、これは今でもそうなるけれど、眉間にしわを寄せて耐えるような表情をしてしまった。お母さんにばれた。やばいと思ったけど、穏やかに母は、ごめんねこれKちゃんのやん~間違えて飲んじゃったわ、と言ったきり。てっきりもっと怒られるものかと構えていたのに。でもこののちもしばらくはわたしはおうちルールに逆らうことを知らない子供でありつづけた。

 

 意図的に初めてルールを破ったのは、(たぶん)小学校一年生の時。うちにはおつかい、お洗濯、をしてもらえるお駄賃をせっせと貯める瓶があった。10円や50円をせっせと貯めた。なんのために貯めていたのかは不明だし、母からこれは使っていいお金ではないとかなんとか、言われていた。小学生と言えば、駄菓子屋。しかしそもそも私は5時以降の外出が禁じられており、さらに駄菓子屋がある地域への立ち入りも禁止されていた。ところがある日、立ち入り禁止地域外にも駄菓子屋があることを知った私は、もう行きたくて行きたくてたまらなくなって辛抱たまらず、こっそりと、それはもうこっそりと、それこそ音も立てないように注意して、貯金箱から選りすぐりの150円ばかりを選り出し、友達と合流。背徳感ではないが、それに近しい、やったった感、それよりも時分のお金で買い物を、母の監視下ではないところで、好きなものを、誰の断りも得ずに買うことは実行できるんだという新しい発見。大げさでなく、勝手に持ち出した150円では硬貨としての実力を発揮できるのかどうかなんて、二信八疑くらいだったから。

結局このときは楽しくなってしまって、友達にもお菓子を買ってあげて、それが友達の母から私の母に伝い、少し怒られた。これもまた、少し、怒られた程度だったのだ。余談だが、私は初めて時分で買ったお菓子を地面に落としたため、二口くらいしか食べていない。あと、その駄菓子屋さんの名前が思い出せない。

 

このときの経験から、母は、私のことを抑圧するが、実際に禁を犯してしまったあとでは、意外にもそこまで怒らないということを知った。そこから少し、私はずるい子になった。母の目を盗みルールを破りだした。中学生の時が一番つらかった。思春期の無自覚の正義感から、ルールを破ることの正当性を主張するようになり、半分くらいの行動を隠すのをやめたからだ。当時の私のひどさはというと、その頃の私を見て育った末の妹が無事ドキュンに成長したほどである。

 

最近では、奨学金打ち切り、大学留年、引っ越し、旅行、アルバイトなど、母の許可なしに人生を豊かにする術をたくさん手に入れていると思う。恋愛もその中に含まれると思う。19歳から、遠くの地に来られて本当にラッキーだなって思う。

 

よかったと思う点 その2

よかったと思う点、二つ目はわたしが長女で、さらに親戚にもまだ子供が一人もいなかったことが挙げられると思う。いうても、一つ下に妹がいるのだが、幼少期のわたしはまあ可愛らしく、口もだいぶん早かったので、それはもう可愛がりに可愛がられ、いろんな人から話しかけられ、物を与えられ過ごしていたに違いない。そして、周りがわたしのことを賢い子供だというように認知するに足りるレベルであったことが次によかったことだと思う。まともな大卒の人間がほとんどいない環境下において、皆わたしのことを賢いと理解し、勉学に励むことを推奨した。そのこと自体には非常に感謝する(中学生頃のわたしにはそれが人格否定のように感ぜられる時期があったがここでは割愛)。

 

それに関連して、小さな頃はゲームは買ってもらえなかった。遊ぶとバカになるかららしい。また、バラエティも見せてもらえなかった。理由同上。ママがわたしに買い与えたのは、知育本。切って貼ってするやつとか。あとは、粘土、レゴブロック、アイロンビーズ、おりがみ、レインボーアート、たまのちゃお。パパがわたしに買い与えたものは、図鑑、本、お菓子。おばあちゃんだけは、シルバニアファミリー、リカちゃんハウス、おジャ魔女どれみグッズ、ローラースケート、ローラーシューズを買ってくれた。

 

小さい頃の環境は、わたしの趣味に多大なる影響を与えているんだなあと感じる。この中で本当に良かったのは、パパが本ならいつでも買ってくれたこと。あと、本を読んでると褒めてくれたこと。

あとはちょっとおしかったけど、わたしに勉強をさせた母もよかったとは思う。小学校受験からさせとけよという文句は死ぬまでいうと思うけど。

 

まとまりのない文章だが寝起きなのでこんなもんでしょう。

 

よかったと思う点 その1

 

最近記事にするほどの出来事が何にもない、寝て起きてバイトして寝るだけの無感動な日々が続いている。まだこれなら病んでる方がマシっていうくらいのやりがいのなさ。新学期を迎える前の、今の冷静な時間に、今までに起こった出来事の中でことによかったと思うものをいくつか、あげていこうと思いついた。こういうのは、わたしとしては初めての試みで記憶を掘るのが難しい。

 

まず真っ先に言えるのは、それなりの都会に生まれ住んだこと。これは本当に良かった。小学生のわたしでも、歩けばなんでも手に入った。幼稚園、小学校、図書館、スーパー、大きい本屋さん、駄菓子屋、ガラの悪い地域、高級住宅街、公園、動物園、デパート、スポーツセンター、さびれた商業施設、しょぼい商店街、大学病院、有名なお寺、塾、ラブホテル、風俗店、役所、郵便局、ルンペンのおじさん、パチンコ、スマートボール屋さん、通天閣、あらゆるコンビニエンスストア。なんでもあったから、なんでも平気になったんだと思う。母親の目を盗んで、ガラの悪い地域の友達の家に遊びに行き、知らないおじさんに500円をもらった。畳屋さんの店先で、夕方までぼーっとしたこともあった。それなりに従順な子供だったけど、幼稚園の頃から治安の悪い地域の子供と普通の地域の子が半々の環境でずっといたから怖いと思うことはなかった。でもやはり、多少意図的に、小学校低学年の頃までは治安の悪い地域から遠ざける方向へ両親は私たちを遊びに連れて行ってたんだなと今はわかる。わたしが治安の悪いとこに大々的に進出したきっかけは、ウチが、駐車場をその地域の中に借りるようになったからだ。その駐車場がどでかい立駐で、それがめっちゃ好きだったのもまあ話したいけどそれは今度にする。そのときからなんとなく、治安の悪いとこに足を踏み入れるのもオッケーてきな空気を感じ始めた。母が仕事を始め、わたしの自由な時間が増えたのもある。ともかくわたしはそのときから、自分のエリアが拡大できるってことを知った。その後のわたしは小学校を卒業するまで、出来るだけ校区と、その周辺をチャリで奔走することと、図書館の本を読むことに従事した。五年生の時、どこか他の町から来たみさきちがそれを後押しした。転勤族で、他の町がたくさんあることを知ってた彼女の世界はすでに広かったんだろう。

 

まだまだ書きたいけど時間がないから、しばらくこの回顧は続けることにします。