新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

商売の海

 

前回に続き、夏休み記事です。

今年初めて知ったのですが、大阪ではお盆過ぎればクラゲが出るので海に行こうなんて言う奴はいない、でも関東ではお盆過ぎても余裕で海に入れるらしい。なので海に行きました。三浦海岸。はじめて海の家らしいやつに入った。おもしろい。写真です。全然混んでないし、ただの快適、来年も行こうっと。

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風があまりにも強くて、波がすごかった。15時50分に遊泳禁止になってしまい退散。

 

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サーフィンできるレベルやん、生身でぶつかって受け止めてやろうとしたらすごい三回転くらいして打ち上げられて、その後戻る波に引きずられておぼれる人の気持ちがわかった。

 

海の家の人からしたら、海はどういう風に見えるんやろうかと考えた。ただの商品になるのかなあ。それとも愛すべき対象のままなのだろうか。

 

こんなことを考えたのは、この数日前にも同じ事を考えたからだ。野球好きの人が企画した、プロ野球12球団のファンで集まって飲み会をしよう、という集まりに、誘われて参加をした。私なりの社会参加人格矯正プログラムである。無事に、楽しく話をして、お酒を強要されることもなく、しずかにはしゃいで、帰ろうかと言う段になった。ここで幹事の方が、発表があるとおっしゃった(まあ、その前にみんなで撮った写真の自分の写り込み方があり得んオタク然としていて凹んだという事件もあったが、それはまあ身の程)。彼の言うことには、自分は野球が好きだ、だから好きなことである野球を仕事にしたいと思う。ふーむ、この時点でやべえなと思ったけど帰るわけにも行かないので聞いた。続きます。自分は好きなことを仕事にしたくて団体を立ち上げた、と、そしてプロ野球のOBの方を招いて講演会を開くことに成功した、と、おもしろい話がたくさん聞けるからぜひきて欲しいと思う、と。完全に最悪だった。私の楽しかったきもちと社会復帰モチベが一瞬にして台無しにされたのだ。

好きなことを仕事にしたい、その気持ちはわかるけど、自分が好きなことをしている人を売り物にする、自分と同じものを好きな人を商売の対象にする、ということに抵抗がないのかな?とおもった。私は好きなものに対しては消費者姿勢を貫くことが本当の応援になると信じているので、とてもいやな気持ちになってしまった。

 

海は人じゃなくてものだけど、海がすきすぎて海の家はじめましたとか、そういう人いそうやなと思って、漫画とかやと、利益はほとんど無くてっもいいんです。海を楽しんでくれれば。みたいな感じやと思うけど、実際の世界ではどんな風な動機がそこにあるのかなっていうのが気になるのです。

 

ちょっと社会的な場所に行くと、こういうことばかり考えるようになっていやな気持ちになりがち、無駄な潔癖。

 

あした(今日)はウルトラコズミックなアイドルたちにオタクしに行きます。

夏休みだから

 

前回の更新からいろいろなことをした。いろいろな人に会った。具体的に消化していこうと思う。

 

まず、バイトの面接に行った。いままで働いていた塾はいったんお休みにすることにした。ヨガスタジオの面接にいった。面接する側の質問内容にはさいように対する積極性が透けて見える。おちるときも、受かるときも、すぐにわかる。数回働いてキラキラプレイスがだめな日に当たって逃げた。ごめんなさい。こういうことも100回は繰り返した。なんだか、すごくいやな経験を1つしたはずなのだがもう思い出せない。

 

元彼経由で知り合って仲良くなった友人とごはんにいった。一年ぶりくらいに話したけど普通に話せて安心した。約束当日になって、何度も時間や日付を確認したり、本人が場所に現われるまで安心できなくてそわそわしたりする事、とても苦手で心が冷えるのでなんとか克服したい。この会合も結構前の出来事なので、会話の内容が記憶に薄い。いやになってきた。

 

さらに新しいバイトの面接に行った。某薬局の店員さんになる予定です。バイト収入の試算をし、幸せな気持ちになっていたのが今日の昼です。働くこと自体が好きなわけではないけれど、自分の存在が時給として簡単に表示されるシステムが好きだ。労働することにより、今日自分は(自分の)ためになることをした。という気持ちになれる、消えたいきもちがすこしばかりましになる。それが労働の効能の最たるものである。お金は副作用。8月に入り、全く労働をした日がないのでそろそろ心が虚無に支配されるところです。自分の趣味やあそびによって、今日は何かをした。という気持ちになれないというバグが発生しているので、こうも毎日いるだけだと、焦るのです。あそぶこと自体がこの気持ちを加速させている気がして、予定をつぶしてしまいたい気持ちにさえなる。並々ならぬ心の焦りが来て、教科書を取り出し、勉強などを始めるか、寝てなるべく早く時が過ぎることを祈るかの二択。あしたは気持ちよくコンサートに行かなくてはいけないので、今日は勉強をします。

 

昨日の話をかけば、あとは別記事に起こそうと思っている二件をのぞけば、夏休みのことはたいていおわったのです。昨日は中学生の時にできたお友達と六年ぶりくらい(?)にあって、上野へいきました。動物園にいこうね、っていう約束だったので、シャンシャンを見ようと。シャンシャンは寝てたけど、笹を食べるパパンダを見られた。シロクマも何か肉のようなものを食べていた。ものを食べる動物というのはこれらも生き物であるんだな、という感覚を呼び覚ます。どうにも、そこにいる動物と剥製の動物との違いにぴんとこないのが本来の私である。友人一押しのサイも草を食べていた。のどが渇きそうだなあとか、考えた。そういう想像が生き物であることを、私と同じ思考を持ちうることを思い出させる。すごいなあ。再三書いたかもしれないが、実際に見たことのないものに対する想像力が皆無なので、ドイツ人がまいにちジャガイモとザワークラウト食べてるとは思いがたいし、友人カップルがチューしてるってことも信じていない。鯖がジグザグに泳ぐことは知っているし、研究室の教授が実験することも知っている。カメが水中を泳げるって言うことも。まあそのことは今回関係なくて、会話の中で一つ素晴らしいことに我々はきがついたのである。

 

恋人とのデート、会話など、いつまでも覚えているものと、そうでないものがあるのはどうしてなのか。という話になった。たしかにそうだった。一緒に行ったところとか、すべていまでも思い出せることもあるのに、最近のことなのに全く思い出せないこともあるんだ。私たちの見解では、自分が主体となって提案、計画したものはしっかりと覚えている、ということになった。当然と言えば当然なんだが、なるほど、感がすごい強かった。最近の自分の虚無感の原因の一端をしった。大人になってから、体力が無くなってから、たくさんあるものの中から自分の嗜好に合うものを見つける努力をしないようになった。あたらしい趣味を見つける努力を怠っているわけではなくて、友人に勧められたものや、恋人に勧められたものの差分みたいな感じで自分の生活を作り、自分自身の本当に好むものとしては、昔に見つけたものを掘り返して、何回もしがんでいるような状態で(それでももちろん味が十二分にでるから、素晴らしいものを自分は好んでいるんだとは思う)、新しいものはほとんどないんだ。かろうじて、、好きな教科書や、本を見つけてきて読むとか、その程度。ピクシブを何時間も巡回したり、自分で書き込んで絵を描いたり、小説を書いてみたり、いろんな作家の本を読んだり、毎期アニメを追いかけたり、いろんな音楽を試したり、がんばってマニキュアを塗ったり、市民プールに行ってみたり、からおけに週6日よったり、とか、そういう熱をこめて、自分の好きなことを頑張って探す、作る努力をしようと、少しだけ、思った。

 

うちがわ

 

健康な時間に目覚めることを苦にしなくなったので6時半に起きた。いつでも昼寝ができる。ただそれだけの事が人をこんなにも健康にさせる、ということを学んだ。バイトがない、研究もない、することがなくて24時間があと1ヶ月半、まるまる自由に使えるので、頭に負荷をかけていこうと決めている。遊ぶのは好きだけど、まいにち毎日遊べと言われるとしんどい、勉強しないと、という焦りが生まれるようになる。そうなったらおしまいで、何をしても楽しくない、罪悪感がこころを圧する。

また、誰とも話さず、家にこもり、勉強に飽きたら何をするでもなく、ぼーっと、頭を動かさないで座っている。すると今度は何から来るのかわからないが、私が安直に発作と呼んでいる現象が起こる。今月に入り頻度が増えた発作は、内面的なもので、わーーーーーーーーーーーーとか声を出さない限りは、外目にはわかるものでは無い。それでも発作は起こっていて、心臓が口まで上ってきて、思考はまとまらず、ひとつのこと、例えばコンセントにプラグをさすことがうまくできない、永遠に感じられる時間を費やす。万事この調子である。胸より上のからだが何かにぶら下げられてひっぱられているかのようにぐわんぐわんと三次元の振り子運動をする。

いまは感覚を元に戻すためにひっしに文を、かいている。当然、タイプミス、変換ミスのあらしである。

 

きょうはもうだめそうなのであきらめました。

501円

 

先週、月曜日から金曜日まで辺境の地つくばにてお勉強会に参加していました。土曜日からは、おうちに引きこもっていました。尊い時を普通と勘違いした私はうっかり銀座に出かけ、銀座で友人とご飯を食べる約束などをしていた。

 

銀座につき、歩くこと10分、帰りたい。社会復帰には、一番ダメな場所だった。裕福のに文字を体現する、元気な若い女、子供の手を引く親たち、シワのない服に包まれた老夫婦、厚化粧の更年期、ブランド店、百貨店、セレクトショップ、目に入れればしみるものしかない。ここにあるもののうち買えるものなんて一つもない。そのこと自体はどうでもいい。無価値な有象無象に金を払い、文化をキメている人々が愚かしくあり、憎いと思った。そんなものよりももっと素敵なものはあるのに。例えば銀座にある、私の一番素敵なものは、アンジェリーナのモンブラン。大切に持って帰って一番綺麗なフォークで食べれば素敵な気持ちで眠りにつけるのだ。

 

 

 

メアド

 

 

メアド変えました、登録お願いします〜

 

みたいなメールを送る文化がなくなった今、隠キャ高校生はどうしているのだろうか。わたしが中高生の時分には、メアド変えました〜、このメールだけは、誰にでも送ってよかった。バカからの、ブラインドなし一斉送信で手に入れたメールアドレスに向かって、当たり障りのない文面を作成し、普段関わることはないけれど推しであるところの陸上部サッカー部あたりの人間に、メールを送ってみるのだ。あるいは、最近話さなくなった女の子にでも。割と一生分の勇気をだして一斉送信の欄に人々の名前を連ねた。そして、仲のいい人以外からはスルーされるのが定番のこのメールに、予定外の人間から返事が来たら、その画面を眺めてとても嬉しいと感じた。自分は自分だと認識されていたんだなあと、大げさでなく感動した。だからわたしは機種変更が好きだった。大抵いい携帯電話は高いので買ってもらえなかったことはもう忘れた。

 

 

高校球児はみんなヒエラルキーの強者だということを忘れるな。