新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

北千住の父

絶対タイトルにしよう〜と思った言葉があったのに赤羽駅で落としてきてしまった、悲しい。もう何をタイトルにしても違う感しかないのでつけません。

※思い出したのでつけました

 

占いの広告の煽り文句って、大抵○○の母〜〜、どこぞの父〜〜という形を取っているのでふしぎだったが、世の中の人は何か心配事があれば?悩みがあれば?父や母やらにまず相談するというのが定石なのだろうか。母親父親に支援されることが必要でない場合に、相談をした記憶がない。二十歳を超えてからは、何をするにも同意が必要ないので何にも話してない。人生上の重要な決定は報告しているが、絶対にそれに対してなにか否定的な意見を言われるので、こっちは報告の義務もないのに報告してあげたのになんだその態度は?みたいな気持ちになるので最近は極力報告もしない。

 

結局わたしのことはわたしが決めるので、誰かに相談することもあまり重要だと思っていないかもしれない。彼氏にはそれでよく怒られる。なんで自分で全部決めるの?決めてもいいけど決めたことは共有してくれよ、などなど。

 

儚いということについて、子供に教える機会がありましたが、どうして、うまく伝えられなかったように思います。むずかしい。

 

電車の発車音をなんども聞き逃し、駅のホームでケラケラ笑う女子高生って私たちだったじゃん?なんで????というきもちです。

 

そだちのよさ

 

学校に来て人とたくさん話すといろんなことに気がつき始めた。

当たり前のことなのだけど、学校っていろんな人がいる。本当に当たり前なのだけれど、いままで4年間碌々学校へ来ていなかったし、特定の2,3人としか継続的に会話をしてこなかったので、そんなことも忘れていた。

大学の人間は、少なくとも同期の人間については、高校や中学や、少し言い過ぎかもしれないが、小学校の同級生たちとはちがう。完全に質が違う。

 

記事ここで5ヶ月くらい止まってた。

 

質が違うのは本当で、私がわざわざ頭の良い学校へ来た甲斐があるとおもう。やはり有る程度を超えた通う価値のある大学へ通える程度まで育てられた子供はきちんとした教育を受けている。教育を受けている、当然処理能力の面へも当てはまる言葉だが、それよりも重要なのが道徳教育のことである。いつの時代にも当てはまり、老人であれ若者であれ適用される、普遍的な常識、これが道徳であると池上彰の本に書いてあったのだが、まさにそれ。私が人生において大切にコレクションして、守ろうと心がけている概念の数々。これらをきちんと、与えられてきた人間であるのかどうか。意識の外にでもそれが存在しているのかどうか。それが教育を受けてきたかどうかの基準なのだ。それだけでも十二分に育ちが良いのだが、そこに健全さが付随するとさらに素敵な人間になるんだなと思った。健康な明るさって私が説明するやつ。

 

たとえば、素敵なものを目にすれば素敵だねと言える、悪いものに良くないよと言える。人の頑張りをほめる、頑張らない人を励ます。私にはあまり備わっていないなあと思う。プラスの気持ちを素直に声に出すことは、近頃実践しているが、思うようにはいかない。うまく言葉が走らない。確かに考えて見れば、人に向ける言葉なんてポジティブなものと批判との2種類で十分だなあと思うもの。

 

これは小さい頃からの周りの人間に依存するなあと思う。道徳は周りから与えられる以上に、本なりなんなりから意図的に身に付けた自覚があるが、自分の話す内容なんていうものは周囲との摩擦のうちに鍛えられたもので、当然影響を受けまくっているので、周りの人間の質に左右されるのだ。悲しいぜ。なのでとっても憧れる気持ちになりました。

 

でもボケとツッコミは許してほしいし、みんなももっと身につけてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

整理整頓

 

この頃YouTubeをよく見る人間になってしまったので、Vlogというおそらくブログをもじった用語をよーく目にするのだが、絶対にブログの方がいいよ〜〜と思っています。

 

でも以前はYouTubeなんてゼッテー見ねーよ、つまんねーモンと思っていましたが、見ているので、慣れなのかなあ。YouTubeで見ているのは、主にメイク動画。この手の物を自分でわざわざ調べたり、他人が(まあつまり一般の人が)どうやって化粧をしているのか、と言うことを前々から知りたくて、本を買うなどのこともしましたが、複数の情報を比較検討したいという欲求に敵わず、しかも流行の影響を受けやすい、ということから書籍が少なく。映像の方が当たり前にわかりやすく、これは良いなあと思う。でもそろそろ見飽きたのでもう見なくなりそう。だいたいみんなおんなじなんやなってわかったし。

 

動画にした方が素晴らしいもの、は当然あるんだろうと思うけれど、なんでも見えるようにしてしまうのも気持ちが悪いなあと思う。howtoてきな動画はとても有益だが、綺麗な景色を見ました!は文字あるいは一枚の写真に留めてほしいなあと思う。手軽に見れるものが増えれば増えるほどつまらないなぁと思ってしまうし、想像する楽しみが減るし、加工された写真の色味に慣れてしまうと、目がバカになる。

 

インスタもTwitterも、最近はラインもそうなんだけれど、自分がフォローしていないものを見せようとしてくる機能が多すぎる。無理やり目に入ってくるの本当にやめてほしい、ニュースとかいうページ作るな。私以下の語彙の人間が書いた三文記事を無理やり目に押し込まれるのが不快すぎて発狂しそうになる。やだなあとおもう。インスタもついったも好きなのに、知らない人が割り込んでくるのが本当に嫌すぎて定期的に消してしまう。なんとかなるアプリあったら教えてください。

 

今日は昼?3時頃に起きてしまったので落ち込んでいたが、その後19時頃になったけれど登校したら心が落ち着いた。でも今眠れずに明日を恐れている。

 

一年前に友達が書いたブログをもう何回も読んでいる。3つしか記事がないので、内容も覚えてしまっているけれど、彼と話している時の気持ちになれるので読んでいる。

 

清貧

 

2020年の目標です。真実でしょう。

(わたしは確かに貧乏なのだが)貧しさの正当化ではなくて、わたしは確かに清貧でありたいと思うのだ。本当に正しく言おうと思うと、その反対の概念、贅沢?豪奢?正確な対義語を知りませんが、欲を感じることが嫌い。

 

高級なバッグや時計やを憎むような気持ちがある。意味の込められていない装飾品、嗜好品、外観にかける自己愛などなどに対して、恐ろしいほどの勢いで、嫌悪が周期的にうまれる。可視化された(?)言葉でもいいのだけど人間の欲の現れが自己主張が気持ち悪くて、わたしに刺さるので、Twitterを消して、Facebookを消してInstagramを消して、またしばらくすれば暇すぎて始めるのだけど。

 

わたしはその一部になりたくない、自分の機嫌を自分で取れるようになりたい、くだらないことだと一蹴したい、愚かしい人間と距離をおきたい。

 

人に好かれるとき、かれらは私がかれらのことを分かっている、と評する。もしくは私がかれらに似ている、とか。確かに、分かっていると思う。自分に置き換えて考えるタイミングがあった。私は自分のことをわかってくれると思う人間に出会ったこと1度しかない。そしてその人は死んじゃったし、休みになると会いたいなあと思うのにいないということが本当につらい。せめて、あなたが居なくなってわたしはさみしいよということだけでも伝えられればなあとよく思う。尾崎豊の詩が好きなのだけど、彼と歌ったことを思い出すのであまり聞けなくなってしまっていけない。

 

若いので

 

外に向けて、目にするもの、口にするもの、匂い、に向けてセンサーを働かせています。

わたしのイメージのうちでは、センサーはとんがった、針のような、ハリネズミのような具合に体の周りにオーラのように飛び出ているようなもの。老いていく、そのことは、そのセンサーの針先が色々なもので削られ、丸くなり、何にも刺さらなくなって世界をぼんやりとしか知覚できなくなること。

年末に書き始めたこの記事を、年が明けてようやく完成させようとするこの怠惰さ、これは怠惰さではなく、老いなのである。見つけたものをすぐに深く追わない、またどうせそのうちに、見つけることができるだろうと考える。初めて見たものに素直に驚かない、これもきっとおそらく「普通」に含まれるべきものなのであろうと、二度三度もっとたくさんこれから目にするはずのものなのだろうと今までの経験から予想する。拘らない、固執しない、初めて何かに手をつけることにドキドキしない。考えることを億劫がる、センサーはまだ機能していますか。自分の「普通」を拡大していませんか。わたしは最近自分の普通が拡大していることを認知して心が折れそうです。

 

同じ研究室の友人を唆してまだコアタイム中にスタバにエスケープした日。サボってスタバ行くのがめっちゃ楽しいと、はしゃいだ彼女に感じた健康な明るさをわたしはまだ手に入れられますか。