新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

シワクチャ

コンビニでチョコレートを買う。別に食べたくもないチョコレートを、1ダース、きっちり飲み下し、地下鉄へ乗り込む。いつもより揺れているような気がして気持ちが悪くなってくる。悪阻か?などとつまらなさ過ぎるジョークをあたまのなかで20往復くらいさせた。前を歩く女の子の、シャツがシワシワでただのひとつも自立していないフリルが、湿気を吸ってさらに重そうで、アイロンくらい当てればいいのになあ。

 

そういえばわたしは小学生の頃からアイロンをかけさせられていたが、末の妹はやっていたかなあと気になった。やっていたようなやっていなかったような。わたしが長女なので、アイロンがけ、掃除、ご飯の準備の手伝い、学校の勉強、全部まだ、教えるのに熱があったように思う。果たして末のが弟だったら、アイロンがけは教わったのかしら。うちには女しかいないのでわからない。

 

角にファミリーマート、次の次の角もファミリーマート

 

 

 

一人分以上の

 

破滅的な最後の気配を毎日見ないふりして過ごしている。恐ろしいほど静かに、怒りが、広がって行く。悲しさはなくなった。人に期待しなくなる、ということの本当の意味を知った。これか〜と、心の底から人に冷たく当たれる自分を始めてみて少し感動している。心が動かなくなることってあるんだなあと。相手に接する時に、自分が求めているものを想像しているはずなんだし、相手に何かをしてあげる時も、こうすれば相手は喜ぶんじゃないか、と考えて接しているはずなんだけど、そもそも、そういう考え方を持たない人間がいるらしい。きっと子供の頃からそういう風に人間に接してもらうことがなかったんだろう。だから、他人と一緒に過ごす上での行動の原理をそもそも持っていない。そういう人を責めるのはかわいそうだし、とはいえ、自分自身見返りのない愛を注ぎ続けようとしてもそろそろ在庫切れを感じます。

 

いま、院試勉強をしています。脳が生き返ってきて、文化的な生活がしたいなあと、しみじみ思って涙が出ます。1人では、文化的な生活を送ることって本当に難しい。実家にいたときは、母親が料理や、昼ドラ、家事の仕方を、父が野球や釣りやらを、妹たちが若者の文化(?)を、それこそ避けようがないくらいに、どんどん新しい情報が入ってきていたのだなと思います。自分から行動しなくても、受け身でいるだけで新しい情報がたくさん入ってくる環境、一人暮らしでは得難い。たまに、1日かけて友達と車に乗ってどこかに出かける日、目につくものつくもの全部にあ!とかすごーい!とか言って会話する土曜日がわたしは今一番愛おしい。会話をベースとして自分の思考、知識を整理して、かつ、自分1人では目につかない情報を得るような日常。

 

 

ドキドキワクワクは

年中無休!ずっとずっとね!年中無休!

これが当てはまるひと、昨日テレビで見たおばあちゃん。田舎町に住んでいて、やってきたレポーターに、この町の魅力は?と問われて、夕日が綺麗なんだって答えたおばあちゃん。毎日みている夕日が美しいものなんだと、感じることのできるおばあちゃん。

 

羨ましくて、苦しかった。

どこまで

 

就職が決まった女が、泣いた。嬉し泣きではなくて、勤務地によっては実家から通えない。実家を離れるのが寂しい、と泣いた。同調する女が、私も初めて一人暮らしをした日、親が帰ってから泣いた、と言った。とても新しい感情に触れた、と感じた。私はそんな感情とは無縁だった。実家から離れた喜びと自由への好奇心しかなかった。ずっと欲しかった1人の部屋。真夜中の散歩、自分が長女でよかったなあと心の底から思った。もし自分よりも年長の兄弟がいたとして、先に家を出ていかれたら、羨ましさで狂ったと思う。

 

昔から、自分が集団に属しているという意識は低い。普段ほとんど感じない。大人に取り入るのがうまかったので、なんともなく過ごしてきたが。つまりは、悪びれなければいいのだ、私が個人であることになんの罪もないですよ。あなたはどうして集団の意思を重んじるの?と無邪気2000パーセント最高なLOVEというかんじで振る舞えばいいだけの話なのだ。でも、それを意識してする人ってあんまりいない。しかも今回その話を書きたいわけでもない。

 

わたしの個の範囲が、まずいのかも。と、いうのが最近の発見だ。極論わたし以外どうでもいいわ、と思って生きているが、どうやら、わたしの範囲がわたしと恋人まで入ってるらしい。ふたりはプリキュア!なのね〜。でも、彼氏は当然人間なので意思を持っていて、それはわたしの意思とは独立にうごくわけで、だからわたしの中の主人公が2人になっちゃって、辻褄を合わせるために、わたしが2人にならないように我慢するわたし(わたし)。彼の行動の意味を後から考えて、自分のベースの意味付けを行い、思考をトレースしようと試み、失敗し、成功し、どちらにせよ苦しい。いうことを聞いてくれ。わたしあなたの思考を読んで求めるであろうことをやってんじゃん、好き勝手に生きてんなよ、自分のため(わたしと彼自身のため)に生きろよ、、、。わたしにとっては自分(じぶん&かれし)のために生きることがベースになっているのに、あちらは、じぶん(基本的に彼氏自身のみ)のために生きているので、なんだかわたしが損しているような?そういう言い方だと違うんだが、報われないような、搾取されているような、勝手に差し出しているだけなんだが、そういう気持ちになっていくばかりだ。アホくさいが、特定の人間と継続的に親密な友好関係を保つためには、集団の存在を許さないわたしとしては、面倒にならないように、切らないように、するための最善策のようにも思えるから、どうしようもない。ほんの数日、2人が遠くにいるだけで、同一視に失敗して、わたしは本当は恋人という集団に属していることに気がついて、途端に彼の存在が鬱陶しくなって、彼が事故で死んじゃえばなあ、と自然に望んでしまうんだもの。

 

 

君と会えたら

 

草野マサムネの季節がきた。私の中では、草野マサムネユーミン尾崎豊、基本的にこの3人が順繰りに、私の心を波立たせている。そして歌に疲れれば、吉野弘の言葉がわたしにはある。

 

圧倒的なものを目の前にして、涙する才能が、わたしにはある。優しい美しい言葉に心を苦しくすることができる。高速道路から見える永遠に繰り返しているのかとさえ思われる風景のなかに新しいものを見つけることができる。目の前に、憧れを見つけて、悔しいと思うことができる。わたしはまだ諦めていないと心の底から思う。まだ始めていないと。始めるきっかけがなかったのか、わたしが潰したのかも、しれないが、まだチャンスがあると、信じている。悔しさからくる怒りのパワーが、まだ枯れない、ならば大丈夫だとおもっている。なんでも、できる。

 

好きな人に、愛している?と聞くことが、恐ろしい。とても薄い(ようにわたしには感じられる)、肯定の返事が返ってくるかもしれないことが、恐ろしい。唯一の、500時間寝ないで考えたくらいの、愛。あるいは、直感的にわかってしまう、愛。そのどちらかが、伝わるような言葉を生みたい。500時間悩んだんやでって、わたしが言えば彼は、500時間って何日?おれ算数できないからそういう例えやめて。と、言う。クスクスと笑う。

 

みんながみんな、子供に戻りたいと言う。わたしも子供に戻りたいと思う日がある。優しさだけがある、悪意を見ない、疑わない、素直な気持ちをもとめて涙を流す日が多い。わたしの、わたしたちの腕の中では夢の時間が永遠に続く。正しい答えが見つかる日まで、永遠に。