新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

久々にむりになってしまいました。

 

昨日の夜急にむりになってしまった。

ほんとは、数日前からずーっと眠くて気を失うように眠ったりしてたから、急にではないかもしれないけど、急にきた。

 

でも今もうブログに書けるくらいの元気にはなってるからもう治ったと思いたい。

 

このむり現象は、記憶にある限りでは小学校一年生の時にはすでに体験した覚えがある。

 

夜、布団に入って何を考えるでもなく考えていると、ある日突然気がついた。私って本当にいるとは限らないのでは?かなりこれはむり状態のときの私の考えとはズレてるけど、言葉で表そうとするとこう書くしかないのだ。

 

押さえ込んでも押さえ込んでも、「宇宙ってどうやってできたのか」「人間って本当にいるのか」「今私が考えていることは本当に自分で考えてるのか」みたいなことが頭のなかにぐるぐる回って落ち着かなくなる。哲学か?みたいな感じだけれど、全くそういう落ち着いた精神状態での思考ではなくて、単なる衝動的な思考があるだけ。自分の目の前にあるものすべてに恐怖していて、一種のパニック状態なのかな。ものすごい勢いで頭の中を同じことばかりが駆け巡って、答えを探そうともしていないのに見つからないことにさらに焦って、思考が脈打つというか、肉体から精神がはみ出てしまって、外側から自分を見ているような感覚。肉体からは全く何も感じなくなる。小さい頃はもう少しマシだった気がするけど、大声で喚きたくて、頭かち割って頭の中拭き掃除したいみたいな気持ちになる。うまく言葉にできない。素朴に、えっこの世界って何?って思うみたいな…。このうまく言語化できないことにもイライラするし本当にむり。書きながら若干パニクってきた。

 

基本は夜にしか起こらないし、今は頻度がかなり、昔よりも減っていて、本当に昨夜のやつも二年ぶりぐらいに起こったのですが、同じようなことが昼間にももっと頻度は下がるけれどおこります。

 

やっぱりなんの前触れもなくその思考は現れる。何をどう考えたらいいのかわからなくなって、昼間は夜と違って恐怖よりも怒りのような感情で支配されて、頭が爆発しそうなくらいに思考が加速されて脈打つ。発狂しそうになるけど、大抵図書館とか、駅とか静かな場所で起こるのでどうにもできない。

 

昼間に起こるむり現象は、誰かと話すとか、バイトに行くとか、人に接する場所に自分を置くと大抵そのうち忘れて治ってしまう。また何ヶ月、何年後に現れるけれど。

 

夜に起こるむり現象は、ひらがなを50文字一生懸命頭のなかで習字して、それが終わったらアルファベットをまた頭から丁寧にゆっくりと習字して、それが終わったら知ってる人の名前を習字して、とにかく別の何かを頭の中に大きく置いて、むり考えに自分が到達しないように阻みながら、眠気が来るのを待つしかない。

 

 

小さい頃は、本当にどうしたらいいかわからなかった。布団を叩きまくったり、腹筋しまくったり、部屋の中ぐるぐる歩き回ったり、真面目にむり考えに向き合って考えてみようとしたり(これは絶対に失敗する)、それこそ、宇宙の学習事典でお勉強してみたりしたけれど、どうにもむり現象が緩和されなくて、ある日普通に限界がきてめっちゃ泣きわめいた。

 

パパに上に書いたようなことを聞いたら、パパも昔同じようなこと考えたことがあるって言ったから、その言葉でだいぶ救われた。じゃあどうやって対処したのと聞いたら、考えてもわからんから考えるのやめた。と言われてそれはにげや!と怒ったことを覚えている。そしてさらに、父が「でも今はなんでわしが生まれてきたんかというとお前たちと会うためやったと思ってる」って言ってきて、違う私が言いたいのはそんなことじゃない、そんな間に合わせみたいな答え言うなよ、って絶望したのを覚えている。(本当にごめんなさい)

 

今日の夜もまたむり現象が起こることが恐怖すぎる。年々頻度は下がってるけれど一回が重くなってきているような気がして怖い。

 

同じような経験したことある、している人がいたら教えて欲しい。

 

 

価値観

 

タイトル打つときにかちかんの変換候補一個目に価値感がサジェストされて驚きたまげました.

 

欲求を充足させるために私たちは遊ぶ.例えば絵を描いたり,かわいい服を買ったり,本を読んだり,する.遊ぶこと自体は必要だし,むしろ遊んでばかりいる私がどうこう言うことは全くないのだけれど,自分が遊んだ結果を見せることを職業にすることについて考えることがある.

 

過激な表現にはなるし,恥ずかしいことを言うと,“遊び”を,そのなかでもとりわけ自分が楽しめない“遊び”をしてみせることを職業とする人間を肯定することができない.遊んでいるようにしか見えないんだ.

 

作家,学者,俳優,モデル,みんな等しく遊んでいるだけなのに,どうして他人から評価されるのかがわからない.気持ちとしては文学作家,学者,漫画家あたりの自分が楽しめるものはまだ肯定できる.

 

ここまで書いてわかったけれど,遊びは個人の自由に任せられた物だから何を偏重しなにを軽んじてもそれこそわたしの自由なのか.じゃあいいや.

 

自分のこの態度は問題ないとみなしたので,この先に進むと,あとは個人間におこる問題と,商品として世の中に出ている“遊びの結果”模倣問題(適当に名付けた)が残ったように思う.なんとなくすでに解決した気がするけど一応すすむ.

 

一つ目の個人間に起こる問題っていうのは,私は俳優さんにそれほど興味がない,といったときとかそれ以外にもよく起こるけど,たいていの人間から与えられる,え~〇〇もしらないの~というやつが死ぬほど気にくわないというだけのことです.逆にじゃあてめえ夏目漱石の本何か一冊読んでう,うつくしすぎる~ってなったことあんのかよ.あったら同士だねっ!人の評価の対象に偏りがあるって言うだけだから,幸せに暮らしたかったら評価対象が似たような人と仲良くすればいいだけの話だな.解決.でもそれって自分の興味の対象を自分で狭めてるみたいな気もして悲しいきもするしなんなんだ.

 

二つ目にかいた“遊びの結果”というのは,いわゆる職業として“遊びの結果”を世に出している人たちから我々が手に入れられる物のことを指していて,それのまねごとをしている人のことが嫌いという話.いや君ブログ書いてますやん,とお思いでしょう.それはそうなんですが,ここでもやっぱり評価対象の偏りをかんじるんだ.もはやただの愚痴だけど.おしゃれっぽい写真,かわいい顔した女の自撮りが偏重される世の中がもう最悪だよ.と私はたまーにそういう気分になって落ち込んでしまうだけ.表層的な部分に自信がなくて,そのくせ表面を飾り付ける方法には興味がなくて,ひたすらに自分が正当評価されていないと不満を募らせる悲しい人間になってしまいそうになる.けどこれも,自分に求める評価をくれる人が周りに少なくとも数名はいること,それを信じて気持ちを満たすこと.支持者を増やすべく,さらに何事かを学ぶことを意識すれば改善される.

 

以前友人が,君は自分の見た目より中身を見ろっていうけど,それは自分の内面に自信があるから言えることだ,と指摘してくれたことを思い出して,私はかなり元気になれるようになった.言われるまで気がつかなかったことにおどろいたけど,真実だと思った.多くの表面的なつきあいをする他人が内面を評価対象に入れていなかったとして,自分自身が自己の内面を不当に軽んじる理由にはならないと言うことにこの年になって初めて気がついた.自分がどれだけ他者からの評価に依存しているのかを知った.まだまだだめだなあという感じ.

 

話が相変わらずぶれぶれだな.

 

文化の社会学

前回の記事で,サブカルチャーについて少し勉強しようと思い立ち,大学図書館をさまよい何冊か本を借りてみました.そのうちの一冊『文化の社会学』(世界思想社)を少し読んでみて感じたことを書いてみます.ちなみにこちらの本です.

この本はシリーズ本の中の三冊目で,そもそも社会学って何なのかわからない素人が,初めに読むなら一冊目から読むべきなのでは?とも思いましたが,億劫なので.ちなみにこの本をチョイスしたのは検索窓にサブカルチャーって打って出てきた蔵書の中で比較的あたらしかったからです.でも2009年だからおよそ10年前?これがどのくらいの時間なのかはっきり言って見当もつかない.

 

先ほども書いたように,じつはまだほんの50ページほどしか読んでいません.そしてすでにもう挫折しそう.

まだ社会学がどのようなものなのかわからないし,本文中に〇〇主義というワードがたくさん出てくるけれどどれも聞いたことがないし.

本の構成としては文化について考察された事柄を羅列(?)というとちょっと違う気がするけど言葉が出てこない,列挙(?)されています,そのチョイスは編者の好みらしいです.誰々のこのような考え方がある→誰々はこのようなバックグラウンドを持っている→編者の感想みたいな流れを繰り返す感じ.

読む前にやっぱり圧倒的前提知識不足なんだろうなという感じで調べながら読むガッツはないのでこの本は流し読んで断念かなあ.とりあえずサブカルについて書かれているとこだけは頑張って読みたいなあ.

 

どういう風にしてこの本読むのが正解なのかわからないな〜.ふーんそうなんだーで終わる気しかしないぞ.この中で興味あったところのリファレンスとか読んでみればいいのかな.

 

今まで読んだ中で一つ気に入ったフレーズがあるので残しときます.

人類は『野生の思考』という感覚に基づく『具体の科学』を生活技術の基本としてきた.それに対し近代科学は,感覚と知性を分離し,抽象的,形式的アプローチを行うことである.(一部改変)

素敵だ〜.

 

素敵すぎて研究マインドぶち上がりました.

から心にとどめたけば幸せな気持ちで生きて行ける気がする.

 

サブカル

 

SNS(Twitter)周回していると、色々な人がいて、過去に関わっていた人、今も関わりある人、今関わりある人の知り合い。全く知り合う予定のない他人。色々な人がいるけど、その中でもわたしが髪の毛全部むしりたくなるくらい嫌いなのがみっつ。

 

ひとつ 頭の悪いやつ

ふたつ イキリオタク

みっつ サブカル女

よっつ オタサーの姫

いつつ AV女優

まだ続く。

 

全然みっつじゃなかった。理性や配慮を感じさせてくれる人間以外は基本嫌いなところがあるので、SNSは地雷祭りなのですが、その中でもやっぱり一番嫌いなのはサブカル女だな〜〜とおもうわけです。

でもサブカルサブカル言ってるけどサブカルって何っていうのがよくわからなかったので、悪口書く前にとりあえず学んできますので、悪口はまた次回に書きます。

 

じゃあ何書こうかな〜〜と考えたけれど、ほとんど何も思いつかない無気力な日です、今日は。強いていうなら先週あたりから頭の中をどんどん叩いてくる重々な話題はあるけれど、まだかかるほどにまとまってないし、ここにかけるような話題でもなかった。

 

小説家か音楽家か漫画家かなんかになってお気軽に自己発現できるようなタレントがほしかったな〜

 

一番かっこいいのは詩人だよ

 

 

お料理

 

昨日作った料理のことを書きます。

昨晩は夏対策ひんやり晩御飯シリーズでした。メニューは冷汁、そうめんゼリー、鶏むねトロロかけ、でした。ここから、普通は美しい写真とともにレシピ紹介の流れになると思いますが、今回は割愛で。雰囲気で料理をしているので(特に醤油使った味付け)。

 

自分以外の食べてくれる人のためにお料理するのは大好きです。

料理をしていて満足感を得られるのは、一つには作業をこなして目に見える目的物が得られるところ。そして二つ目はその目的物は、ほとんどの場合、時間と費用を適切にかけてやれば自分が望む形で得られるということ。最後に、料理を食べてもらう相手にすぐに目の前で、概ね高評価がもらえるということ。

お料理最高だ。わたしにとっては今の所いっちばん手早く気持ちが満たされる方法です。

 

でもこれもわたしがある程度料理する上で必要な具体的操作、調味料や食材の知識をすでに持っているから楽しいわけで、なーんにも知らなかったら料理も初めは苦痛なんだろうか。多分そうなんだとおもう。

 

やっぱりもっと勉強しなきないけないんだな。

 

このまえ、フジテレビの社員さんとお話しする機会があったのですが、テレビのカメラマンって、映像撮ること(?)をカメラ振るっていうらしい…へんなの。