新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

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あかん、そろそろ全部無理になるの一歩手前。わたしは頑張ったけど何もかも無理になりそう。どうしたらいいんやろう、とりあえず金曜日の歯医者に行ければまだなんとかなるようなきがする、あかんかったときは、もう、あかんのやと思ってゴールデンウィークは誰とも連絡取らずに引きこもらせてください。やはりこうして病むようになるのは、圧倒的に体力の不足が原因であるんだな〜〜というのはわかる。

 

ここ2,3日のわたしの頭は、トータス松本によって支配されてるから、起きるときはガッツだぜで起きるし、疲れたら、心の4畳半でトータス松本に、かわいいひとを歌ってもらうねん。道歩くときは、大阪ストラット流して、心斎橋に行くつもりではしゃぐ。これで今週は乗り切れる気がしなくもない。

 

ええねんええねん、とりあえず寝て起きたら元気なるわ!って言って布団しかせてくれ、

 

そういうのが好きや

 

レコードまわすよ

 

今日はウルフルズのアルバム無限周回デーです。何をかけようかとか、考えなくていいんです。わたしはウルフルズが大の大の大好きです。特にきちんと追っかけをしてるわけではないんですが、どの曲聴いてもスキ!!!最高や!!!と思う。聞くに耐えない無駄な曲がない。多分それはほんまのことしか言ってない、とわたしの直感が感じるからで、トータス松本が歌うのは、理想の中のわたしの世界に近しく、願わくばこんなおじさんに翻弄されて尽くす女になりてえよ〜〜と思うのです。

 

これってどうなんだ。わたしは自活できる女になってやらねばならぬと、それを心に固くきめてやってきているつもりなのに、ダサい女になりたくないと、バカみたいな、そういう女になりたくないと、自己人格を自分以外のところに求めないことが最終目標であるのにもかかわらず、いつも気が付くと、使役される立場を好んでいるようです。これは少し丁寧に言うと、旦那、あるいは恋人になる男性のわがままを聞いてあげている心の広い私、を世間に認められてたい、という動機があるのだと思う。責任転嫁すると

、世の中の多くの人間(少なくとも私の周りの多くの人間)が、いまだに(過激に言うと)男尊女卑のマインドを携えていて、私もその熱心な教育にみごとに食われてしまった。というわけです。同じように、意思をもってトウキョウシティーくんだりまでやってきた友人と話していたって、みんなそういうよ。地方の女は、女自身が男尊女卑的思考回路から逃れられないでいて、自分が本当になりたいのは、どっちの女なのかわからなくなっているんだ。(持論です。)わたしは、ちょっと考えて、今の私なら、同時にどっちもになれると思った。それが、地方都市から東京シティに出てきたことで得られる一番の利益なんじゃないかとさえ思う。町に、許容の姿勢を感じる。はっきりとは言えないけど、やっぱり首都然としようという雰囲気、女性に人権を与えたも!と思う人間の上澄みの濃度が一番高いのはきっと東京なんだとおもう。っていうのを、昨日就職はどこでするのって聞かれて、もちろん東京、なんで?の会話から考えた結果です。

 

これはさっき気が付いた事なのでメモしたいのですが、私が、世間話が苦手な理由、精神的なものを抜きにしてみると、圧倒的にシミュレーション不足という説が濃厚です。まず、世間話として、こんにちは、初めましてから分化しうる会話の流れをある程度、想定することがにがて。あとは、例えば、芸能人って誰が好き?程度の質問をされたときに相手が求めているであろう回答(多分俳優の有名な人の名前)はある程度想像できるのだが、自分の中にその要求を満足させるべき答えが瞬時に準備できない、という状況が多すぎる。たいていの質問に対して、かなしいかな、お宅は耐性がないのです。嘘つきになるけど、ストレス緩和のためにあたりさわりのないテンプレを用意しておくのがいいのかなあ。という、悩みがまたストレス。オタクとだけ会話してえわ。

あと、パンピ(非オタ全般の人間)って、どうしてあんなにオタクとパンピはそんなかわらないよ!というスタンスなんだろう。絶対に違うやん。指疲れたから、このはなしは今度書きたい。

 

俺はトカゲ

 

ママと、ママのことを疑わないキッズに見送られて601号室を出る。イヤホンを耳にさして流すのは尾崎豊のLOVE WAY。今日50回目くらいのイントロはまだ新しさがあり心地よい。スマホの画面を見て、通知タブで届いたラインに目を通す。今は返事する余裕がないからもう1時間は待ってくれ。まだ申し訳なさを感じるギリギリのところで、エレベータが1階に着く。

どこの部屋からか、お風呂の沸いたいい匂いがして来て、朝からずっと高まってきていた不安が静かに溢れ出した。もうだめだ。攻撃せずにはいられない。一方的な連絡には返事しません。世間話をする余裕はありません。ましてや好きを受け入れる余裕もないし、レポート出して、学校に自分を出して、課題出して、こちらから出せるものはほんとのほんとにないです。ないんや。

 

私は今年、だめにならないと決めてるので、しばらくは無理になったものは、遠くにやらせて。自分の面倒だけなら、たぶんまだ余裕で見られるから。そこで全能感蓄えたらまた近接距離で人に接することもできると思うから。なんとなくそんな風にして、今までも多少うまくいってたから。

 

 

バックアップ

 

朝からダメになる一歩手前でずっと、ずっと、ずっとひっかかって耐え続けている。それでも起きて、1限に行くことが、回復への道と信じてここまで来た私の成長は認められたい。

レポート印刷ジョブが残っているのですが、パソコンの電源がずっとつかない。些細なことが気を逆撫でするし、どうも頭痛のようなもので頭がチクチクする。こうしてすぐに体調不良になるのは甘えですか。違うとはっきりわかる、これは他力本願マインドの欠陥なんです、説明させてください。

 

他力本願マインド、わたしの生き方の基本システムであるこれは、一言でいうと、他人の期待に応えることを目標として生きること。やりたくないこと、やりたいことは問わず(もちろん、やりたくないことの方がこのモチベーションの実力がより発揮される)、すべての行動は、他人からこう見られているだろう自分を演じること、あるいは他人からこのような人間なんだなと見られたい自分へ誘導するための手段として選ばれる。ここで重要なのは、他人の条件をどのように設定するか。これを失敗すると一気にダメになるのがはやくなる。当然他人を1人に絞ってしまうのは、もう、幼稚園生になるまえにみんなやってて、私も、ママの期待だけに応えるために頑張ってた時期あるから、自然に過ちに気付くと思う。次に、パパ、おばあちゃん、私の場合は妹、っていう風に次第に範囲が広がっていって、決定的に範囲が広がったのは、小学生の時、担任とクラスメイト(2クラスだったのでほぼ固定)に囲まれた時。だが幸いにも、私のクラスメイトの殆どと、すべての担任はクソ野郎だったので、風呂敷を広げる必要もなく、無事に育った。この背景には、まだその頃は全力で他人に期待していたというのもある。全員が私とおんなじことをできると思っていたもの。ここは結構書きたいことあるけど話が進まないので割愛。中学高校もオタクだったので、ほとんどの人間とはきっちり関わらずに生きられた。または、仲の良い人を通して接するに耐えた。

 

大学生になって、一人暮らしを始め何をするにも社会との第1接触が強いられるようになった丸3年前、私は病んだ。何もできなくなったから、留年した。これだけが病んだ原因ではないけれど、他人の範囲を広げすぎたのだ。特段、仲の良い人間が近くにいなかったので、1から100まで全員の重みを同じくらいにして、接するしかなかった。明らかに私の体と頭が耐えうる以上のことを要求されているような気持ち。ある日、なんでこんな知らん奴のために頑張らねばいかんのやと気がついてからは、他人の条件を厳しくして、特に仲の良い人間に重きをおくようになった。といっても、東京に来てからの知り合いは、やはり心許ないので、結局は一番時間を過ごすことになる、恋人が頼みの綱なのだ。前だって今だってそう、そしてこの一極集中により、私の地盤はゆるゆる、バカバカ。

 

私が相手の期待に応えたいと思うということは、裏番では相手が私の期待に(既に)応えてくれているという前提が成り立っている。相手が私の期待しうるすべての条件を満たしているなんていうことはあり得ないので、このシステムが、そもそも破綻していることは明白で、だから今日も私は些細なことでダメになりかけている。自分が想定していなかった方向の良くない点が露わになるたびに、震度2ぐらいでゆるゆると揺れる、気持ち悪くなって、本当はちょっと違うのだが、張り合いのなくなった、ような状態になる。うまくいけばその良くなかったところには目を伏せて、再び似たような状況が訪れるまではひとまず平気になる。ビビリなので、直してほしいと言えないからそうするしかなかった。

 

今の所今回は臨戦態勢なので、うまくいくことをみなさん、どうか応援ください。

 

今日のBGM「LOVE WAY 」尾崎豊

心のお花畑

 

今回の話は、もしかしたらブログにも書いたかもしれないけど、記憶にナイのでたぶん書いてない。

これは去年の末にかけて気がついた事柄ですが、私は心の中にお花畑があります。今はお花がいっぱい咲いているからそう呼んでいますが、前には、ていれの行き届かないお花畑だったこともあるし、焼け野原だったこともあるし、ひび割れた大地だったこともあります。

私は友人には非常に恵まれた人生を送ってきているし、これからもその予定なので、この心象風景は友人関係に左右されるものではないと言うことはすぐにわかりました。では、何が私のなかにそんなに影響するのか。お花畑という単語から連想するに容易い、恋愛感情がそれです。これはいい傾向だと直感しました。よくよく考えてみると直感は正しく、これは親からの独立の覗える結果であるのです。言い方を変えれば、親からの承認を夢見る気持ちのいくらかをあきらめることに成功したのです。もちろん全部ではないが、私に対する態度を変えてくれない親へきたねえ言葉をぶつけて疲れることに疲れた私は、早くあきらめたいと、常々祈っていたのです。東京に来て4年目を迎えようというこのときに、19年間の画策を経て実現した実家離脱の効能が現れたのです。過去の私本当によかったな。さて、親の重みの減った私は100%を保つために新たな項を追加しました。それが先に挙げた心のお花畑の管理人、恋人になります。

 

今までは、他人から得られない自己肯定感を自身でどうにかこうにか、捻出しなければ、脅迫めいた焦りと、恋人の存在に頼ることと依存との線引きに尻込みしていたのとで、心のお花畑予定地はあったものの、自分で耕して、種をまいて、肥料をやって、毎日水をあげて。完全にキャパシティオーヴァーなので維持できるはずもなく、ますますの自己肯定感の消失、ということを繰り返してきたのです。いちどは花畑メンテナンスを放棄した私ですが、そこにお花の苗を持ってきて植えてくれるひとが現われたのです。なんてことだ、青天の霹靂、目から鱗、棚からぼた餅、寝耳に水。騙されてんじゃないかと100万回疑う、オタクのいうところの女に話しかけられると疑うという感情を体得。

これのすごいところが、お花畑にお花がやってきて、それで終わりじゃないのです。お花を植えた人は、また新しいお花を植えて、お水をあげてくれて、肥料もくれるから、植えたお花は元気に育つし、土も肥えてくるの。わたしがすることといえば、そばに立てたハンモックの上から綺麗だねえとお花たちを眺めることと、たまには育ったお花を摘み取って花束にして送り返してみたりするくらい。あとは、会わない間に、お花を枯らさないように、ほんの少しだけ気にかけるだけのこと。なんかこんな世界もあるんだなあと、日々感謝のマインドで軽く宗教。最近気になるのは相手のお花畑はどんな感じなんだろうってことですね。知らないうちにわたしが花を植えれてたりするんでしょうか。

 

なぜ今回こんな似非口調かというと、すくなからずの恥ずかしさの下に書いたからです。余談ですが、私のお花畑の構成員は季節問わず基本的にコスモスとチューリップです。