新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

いなりちょう

 

わたしは許されている。うまくいかないことはない。もっとぐちゃぐちゃの、ゴミカスみたいな人間になって、許されなくなる前にぐちゃぐちゃにならなければいけない。深夜徘徊や、ゲーセン、パチンコ、タバコ、キャバクラ、そんなものではちっともなんにもなれなかった。もっと、許されないまでになろうと、どんなに努めているか、わかるか。

 

毎日記憶がなくなる。日常のことがなにも覚えていられない。どれが昨日かわからなくなる。明日の予定が果たせない。同じところをぐるぐる回っている。

 

二駅前で降りて、轢いてくれないかなと思いながら点滅信号を歩いてわたる。

 

 

世界は3人まで

 

本を読んでいてふと気がついたことがあった。いつだって、場面場面を切り取れば主たる登場人物は3人ということがほとんどだと。そしてシャワーを浴びている時は本当の一人の世界なので、冴え渡った私は過去を思い返す。現実の私の世界はどうだろう?登場人物はいつも何人だ?当然そうあるはずなのだが、3人だと、言えると思った。関係ないが、私が日常で好きな場所は、トイレの個室(ユニットバスは除く)、シャワー、布団の中、人が2,3人しか乗っていない電車だ。実家の頃は、誰もいない時とかはトイレを自室にして、床に座りフタを閉めたトイレを机にして本を読んでいた。将来家を作る時は是非そのぐらいの大きさの読書部屋を作りたい。

 

ところで、私の世界の登場人物はいつも3人。今は大抵、自分とそのときに一緒にいるあるいは連絡を取っている彼氏と友達、の3人だ。グループで遊ぶようなこともある。でもいつもじゃない。たいてい3人を超えるとお手上げで、結局みんなで会話はできない。不思議なことに、友達二人と私で遊ぶ時なんかは、もうずっと彼氏のことは思い出さない。友達と私で二人の時なんかは、ちょこちょことラインの返事を送ったりする余裕がある。そういう意味で3人目の席には彼氏が座る。考えてみれば、実家に帰った時、妹二人と私、あるいは、妹ひとりと母と私、で出かけることはあるが、妹二人と母と私、というのは思い出さない。もちろん家族5人で出かけることはある。そういう時も子供3人と父母に分かれる(これはたまたま子が3人だからか?)。

 

登場する人が少ないというのもなかなかない。小説でも恋人と友人と自分、あるいは自分と犯人と助手、教師とわたしと自分の母、自分と母とその恋人、………というように必ず何か必然的な3人目がいる。二人で完結させるのは難しい。批判の目が薄くなる。日頃批判的思考を心掛けない人間でも、どこかに3人目を置いているのだろうか。人間は無意識のうちにバランスを取ることを試みるのかなあ。

 

とりあえずこの大発見に私はどや顔している。他の人がどうなのかを、早く知りたいな。

 

 

嫌いなものが

 

あなたが食べられないものがあるとして、わたしはそのことをかわいそうだと思うことはあるが、今更無理に食べられるようになれとは言わない。ただ事前に知らせて欲しいだけ。晩御飯をウキウキ作った後に、私はそれを食べられませんと言われて、2人分のそれを2日に分けて食べるような悲しいことを避けたいだけなのです。避けられたはずの悲しみへ頭から突っ込むと言うような行為は、幼さ、として何処か遠く、2度と思い出しもしないところへと追いやってしまいたいのです。

 

同様なことは、いくつもいくつも続きます。たとえば、花火大会に行った時、恐ろしいほどの人混みになるであろうことは事前に伝えていたにもかかわらず帰り道にはこう。花火も興味ないし、こんな人混みなら2度と来ない。思い出したら涙が出た。デートで行きたいところを考えてと言われたので、パフェが食べたいと言った。パフェに連れてってもらったけど私が1人で食べた。あなたはニコニコ笑って見ているわけでもなく、居心地悪げにケータイでゲームをした。いつも、家に帰れば寝落ちする、2時間で起きるといって起きたためしはない。できないこと、やりたくないことがあるなら、事前にそうだと伝えることが、優しさだと言わないか。何より今書いていて気がついたが、これは思っていた以上に悲しいことなんだと思う。私の好きなこと、好きなものを一緒に楽しもうという姿勢のないことが、私を苦しめているからだ。ただ、それだけが、最も悪いのだ。

 

 

 

ペパーミント

 

友達のブログを読んでおもったけど、今日は休日ですよと、自分に教えてあげることが必要だ。土日を無駄にしないようにと二日とも朝からバイトがあるんだけれどそれが精神によくないのかもしれない。平日、特に学校に行っている日は、学校について理学部棟のエレベーターに乗って、あら今日は何階で降りるんだっけ?と考えるときまで一切の思考がなく、惰性で行動している。恐ろしいことだ。さらに来年度になれば、何階で降りるんだっけ?もなくなるわけだから、本当に怖いなあ。

 

やはりきょうも、自分に分かることしかわからない、ということだけが分かった日だった。明日は大好きな人とデートなわけだけど、お互いのしたいことを半分こっこにしたらフルーツパフェを食べに行ってスロットしてタラのお鍋を食べる、というプランになった。互いに譲らないので笑ってしまった。

 

 

今読んでいる本はカズオイシグロの私を離さないで、です。途中まで、上から目線の助長な文章に辟易していて、読み終えられるか不穏でしたが、15章までやってきて、この本は15章のために存在するんだなってわかったので落ち着きました。とても、とまではいかないけれど、素敵な本ではあります。わたしは、本は文章の美しさ、流れの良さが、その本がいい本かどうかの基準となっていることが多いので、基本的に海外文学はあんまり好みじゃないってことを思い出しました。だって、ペパーミント色の壁と天井が、どんな色なのか全く想像ができないんです。

 

 

友人の愛 想像の範囲

 このごろは友人Lちゃんと毎日れんらくしたり、一緒に遊んだりしている。人間、いろいろ仲良くなる要因はあるのだ。後からわかったことだけど、小さい頃に同じ本を読んでいたりとか、編み物が好きになれたりとか。わたしはチョロオタクなので友人に勧められたものを好きになりやすい。自分の趣味のうちの8割は自分以外の人から教えられてはじめたことだ。内容自体にもちろん好き嫌いはあるが、殆どその人と何かをするのが楽しいから、そういう理由で続けてきた。ので、一緒にやる人がいなくなればコンテンツを追うこともしなくなった。最近好きになったものは、Lちゃんに教えてもらったものばかりになってきた。一緒に遊べるものが増えてうれしい。この間、相手も同じことを思ってくれていることがわかった瞬間があった。わたしがオススメされたアニメを見ていてその感想を彼女に送っていたときだか何だかのときに、あなたの好きなアニメも教えてと、あなたの好きなものも知りたいと、言ってもらえたのだ。かなりドキドキした。ほとんど告白じゃん、と思った。相手のことを知りたいと思う気持ちは愛の最短表現だなあと思った。

 

最近人に嫌なことをされたことがあった。嫌すぎて無視したりもしていたけれど、わたしの想像力が足りなかったんだなとわかったので、仲直りしました。相手が想像した私が怒っている点は、私が本当に怒っていたこととは全く違ったけれど、相手の想像力の範囲、つまり、相手が私に対して感じていることがそこには反映されているということに私は全く気がついていなかったわけです。人間、相手の心を想像するにも自分が感じることが限度なわけです。だからきっと私も相手を最大限思いやっていても持っている感情の幅が違えば傷つけてしまっているだろうし、喜ばせたりもしているだろうし。私の感情は鈍い範囲が広いので(ある特定の事象に対してしか敏感ではないので)、自分が想像しているよりもはるかに人を傷つけているんだろう、と想像して悲しい。人に何かをされて悲しいムカつく、と思う気持ちが本当に育っていないので。

 

 

今日のタイトルは、最近文ストでお気に入りのキャラ谷崎潤一郎痴人の愛からとりました。kindleで無料なので、ぜひ読んでください。リンク貼っています。最近はAudible版というのもあるらしい…。すごいね。活字で読むほうが楽しいじゃんと思ってしまうけど、試してみたほうがいいかもしれない。これからはときどき記事の最後に私の好きな本をのせようとおもう、そしたら自分ももう一度読み返せるし。