新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

自分から捨てる

 

周りの目を気にしない、気にする余裕がない(?)、会話が楽しい日がない。繰り返しの世界、くだらない人しかいない、私の心の救いは桐生院ヴァンのキャラソン。永遠の愛のうたなので1億回くらい聞いた方がいい。キャラソンの凄いところはそのキャラに歌わせることしか考えずに作られているところですよね。

 

学校卒業して新しい大学院に行くまでにやることなさすぎてめっちゃ暇。新宿らへんに桜咲いてた。水戸偕楽園に行きたい気持ちで早7年。

 

手の内を全部見たらもういいやって、思うやん。日常生活の外に必要なのは刹那性、

 

倖田來未になりてえ〜〜。

 

わたしの国から世間を俯瞰する

 

最近自分の考え方が随分と大人びた、否定的にいえばまるくなった、老いた、というふうに思う機会が多い。いつも周りよりも一足先に成熟してゆく自分を疎ましく思う。

 

今まで我の強いキャラクター、自分のせいで人を振り回すことがあっても自分のやりたいことを貫く人間が好きだった。でも近頃はそういう人を幼いなと感じる。もちろん自分のやりたいことがあって、それを実行するのが全てのうちに最も素晴らしいことだと思う。やりたいことがきちんとわかっていることはすごいから。それと同時に今自分ができることの限界を知っていることが必要だと思う。自分のできないことを達成するために他人を利用したり、不要に他人の力をあてにしたりする人間を心底嫌だなあと思う。それは努力とは言わないし、人の力を借りて達成したことに意義を感じられる脳なのならさすがにハッピーすぎはしないか。それとは別に、周りの不利益をかえりみずに、あるいはまた、他人にとってはなんの意味もないことに他人の分の時間を奪ってまで自分のやりたいことだけをやる。友達のゲームを奪ってあそぶ小学生と同じこと。そういう人にならないように気をつけようと思うようになった。大人になればさすがに人のパソコンをとって何かを始めるような露骨なことはないけれど、似たような構図はよく見るなあと思う。実際わたしも何度も似たようなことをしてしまったなという自覚がある。とても恥ずかしいなと思う。

 

自分のやりたいことは、人に迷惑をかけない範囲の、時間と労力とをかけて。それよりももっとやりたいことは圧倒的パワーと熱量で誰よりもすごい人になってからやるまでのこと。

 

わたしは世の中の全てに対して公正で誠実でありたいなというのが目標だ。残念ながらまだわたしには1から100までに対して誠実であるだけの余裕と協調性がない。だからわたしの国から始めようと思う。わたしの国はポジティブな動機のもとにたてられるのです。そこにいる人全てに対してわたしは全てのレベルにおいて誠実に振る舞うことを強制される。つまり誠実に振る舞えることが保証されている。ここは世界で一番平和で自由な場所。わたしはこの国の第一の住人にわたしの恋人をと決めている。彼はわたしに遠慮しないし、わたしを見下したり崇めたりしない。純粋な好意と優しさと全ての誠実さをかき集めた心でわたしに接してくれるからである。彼のことを、彼の体をベッドにして眠りたいぐらい信頼しているから。

 

でもそれだけじゃきっとだめだから、いつかはもっとたくさんの人をわたしの国の住人にしていきたいなという気持ちです。

 

 

わかり合うこと

 

わかり合うことってとってもとっても難しい。私は人に相談?することが苦手だ。私の考えを余すことなく言葉にするのも、それを相手が正しく理解するのも、言葉を理解した上で内容を理解してもらうのも、私の感情を込みにすればほとんど全くと言っていいほど、きちんと伝わると言うことはないだろう。人生で一人くらいは魂の双子に出会うこともあると思うけど、それはとてもラッキーなことだし。

 

さらに、理解すること、とわかり合うことの間には無限の隔たりがあることを知って欲しい。あなたの考え、感情はわかりました。ところで私はこうなのです。なるほどそんな考え方もあるんだなあ。と言うふうに互いのことを理解することは、多分たくさんあるだろう。それが友達の役割だと、私はそう思って生きてるし、いろいろ意見を言ったりするし。

わかり合うことは、それよりもさらに辛く、犠牲の多い、魂の削り合いで、わかりあいたい相手には自分の意見を伝えるだけでも涙がでるくらい。わかり合うには、先に書いた理解すること、に加えてお互いの及第点を見つけること、感覚、意見を共有すること、までが含まれる。私がA、相手がBといえば新しいCをともに考えるかそれともどちらかがA,Bへ寄せるか。労力をたくさん使う、面倒でいちいちやってられない。私が今まで何度か書いたかもしれない、わたしのことを諦めないこと、というのはこれにあたる。なんどもなんども対峙して、話し合ったり、相手のために自分を曲げたりすることを面倒だ、不条理だと思わないことが愛なのだ。わたしはそういう人を恋人にしたい。こんなことは恐ろしくて、とても友達に頼めないし、そんなに何人とも魂のバトルはできないよ〜〜。魂の強者か真のにぶちんにしか無理だと思う。

 

 

とかいうことを考えてたのだけど、昨日友達と会って、話していていろいろな話を聞いてもらって、ゲラゲラ笑って、ハッピーちゃんじゃんwと褒めてもらいました。それで、わたしは自分がハッピーちゃんでいられる人を恋人にしたいんだな!って新たな気付きも得ました。

 

諦めないハッピーちゃんメイカー、最強です。

 

 

ひがのぼる前だから

 

二度と会うことがないであろう人たちのことを数え上げていると、アッという間も無く指が足りなくなって悲しい気持ちになりました。そんなことで、悲しくなるほどの接点もないのに。高校の時、隣のクラスの話したこともない男子が、学校を辞めただけで寂しくなってしまった私のセンシティブな心はまだ健在のようです。

 

橋を渡りながら今、浅いのか深いのかもわからない、実はコンクリートなのかもしれない水面に向かって、携帯電話をこのまま投げ入れて、何処かへ行ってしまおうかともおもいます。

 

風があまりに冷たくするので、じぶんのことが、道端に落とされた、マフラーのようにおもえた。そういう日には自分を投げ出して、人に擦れさせて、傷つけてしまう。ヨレヨレになって、人にふまれても、私のことを好きだという人が拾いに来てくれることを知っているので、ボロボロのボロ布になることをやめられない。これは下準備なのだ。心を許している彼の手の内で、遠慮ない好意にすし詰にされるための。

 

近所のケーキ屋さんの窓に灯りが入っていて、正しい人の光はおれんじで、頑張る力もぼんやりと、目に優しいものだと知った。

 

誰かの家の玄関の、人感センサーライトをつけてしまって、早足でそこを離れた。

 

早くお布団にたどり着かなくては。

 

 

ずっと前にね

 

父親に言われたことで、はっきりと覚えていることが一つある。お前は大人になったら世間の速さがあまりにも遅すぎてびっくりするし、いらいらすると思うわ。ということだ。最近まで、実感していなかったけれど、どうやら私のスピードはだいぶん速いようだ。

私のスピードってなんだよ、っていう感じだが、1,2,3,4,5の連なった事柄があり、皆位1からはじめて5にたどり着きたいとする。普通の人が順に1から始めるて進んでいく、あるいは、1,2,のあたりでうろうろとしているかもしれない。持っている知識が足りなくて、検索が下手で、5までたどり着けないかもしれない。体感として、わたしは、1,2,まできたらもう、もしかして次は3?というのがわかるし、3までくればもう4を探すことなく5までジャンプできるように思う。直感的にわかる、ような気がする。多分知らないうちにそういう訓練を積んだだけだと思うけど。はっきり言って、私は日常会話をするのは結構めんどうだ。ていうか、相手も私と会話しても困ると思う。いきなり1から5に飛ぶような話し方ばかりしてしまうから。たまに反省するけど、私の中では正しいと分かっていることだし、理由を言えと言われれば、いくらでも挙げることができるし。これがスピード感に気が付いた理由のひとつ目。

 

もう一つは、思考と行動のスタートの差の小ささ。たとえば、あ、毛染めしたい、とおもってから実際染めるまでの時間。お金足りない、バイトしなきゃ、とおもって面接に行くまでのラグの短さ。それがわたしはとっても早いみたいだ。とりあえずこれやってみよう、っていう場当たり的な行動の軽さとは、また違うのだけど。

 

最近これらに気が付いたのは、みぢかにとってものろい人がいて、いらいらしちゃったからなのだが、これは人間関係を切るに値するくらい重大なのかな??と悩みます。

 

スピッツのロビンソンのベースめっちゃ好きになった。弾みかたがすごいのでおすすめです、聞いてね。