新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

うちがわ

 

健康な時間に目覚めることを苦にしなくなったので6時半に起きた。いつでも昼寝ができる。ただそれだけの事が人をこんなにも健康にさせる、ということを学んだ。バイトがない、研究もない、することがなくて24時間があと1ヶ月半、まるまる自由に使えるので、頭に負荷をかけていこうと決めている。遊ぶのは好きだけど、まいにち毎日遊べと言われるとしんどい、勉強しないと、という焦りが生まれるようになる。そうなったらおしまいで、何をしても楽しくない、罪悪感がこころを圧する。

また、誰とも話さず、家にこもり、勉強に飽きたら何をするでもなく、ぼーっと、頭を動かさないで座っている。すると今度は何から来るのかわからないが、私が安直に発作と呼んでいる現象が起こる。今月に入り頻度が増えた発作は、内面的なもので、わーーーーーーーーーーーーとか声を出さない限りは、外目にはわかるものでは無い。それでも発作は起こっていて、心臓が口まで上ってきて、思考はまとまらず、ひとつのこと、例えばコンセントにプラグをさすことがうまくできない、永遠に感じられる時間を費やす。万事この調子である。胸より上のからだが何かにぶら下げられてひっぱられているかのようにぐわんぐわんと三次元の振り子運動をする。

いまは感覚を元に戻すためにひっしに文を、かいている。当然、タイプミス、変換ミスのあらしである。

 

きょうはもうだめそうなのであきらめました。

501円

 

先週、月曜日から金曜日まで辺境の地つくばにてお勉強会に参加していました。土曜日からは、おうちに引きこもっていました。尊い時を普通と勘違いした私はうっかり銀座に出かけ、銀座で友人とご飯を食べる約束などをしていた。

 

銀座につき、歩くこと10分、帰りたい。社会復帰には、一番ダメな場所だった。裕福のに文字を体現する、元気な若い女、子供の手を引く親たち、シワのない服に包まれた老夫婦、厚化粧の更年期、ブランド店、百貨店、セレクトショップ、目に入れればしみるものしかない。ここにあるもののうち買えるものなんて一つもない。そのこと自体はどうでもいい。無価値な有象無象に金を払い、文化をキメている人々が愚かしくあり、憎いと思った。そんなものよりももっと素敵なものはあるのに。例えば銀座にある、私の一番素敵なものは、アンジェリーナのモンブラン。大切に持って帰って一番綺麗なフォークで食べれば素敵な気持ちで眠りにつけるのだ。

 

 

 

メアド

 

 

メアド変えました、登録お願いします〜

 

みたいなメールを送る文化がなくなった今、隠キャ高校生はどうしているのだろうか。わたしが中高生の時分には、メアド変えました〜、このメールだけは、誰にでも送ってよかった。バカからの、ブラインドなし一斉送信で手に入れたメールアドレスに向かって、当たり障りのない文面を作成し、普段関わることはないけれど推しであるところの陸上部サッカー部あたりの人間に、メールを送ってみるのだ。あるいは、最近話さなくなった女の子にでも。割と一生分の勇気をだして一斉送信の欄に人々の名前を連ねた。そして、仲のいい人以外からはスルーされるのが定番のこのメールに、予定外の人間から返事が来たら、その画面を眺めてとても嬉しいと感じた。自分は自分だと認識されていたんだなあと、大げさでなく感動した。だからわたしは機種変更が好きだった。大抵いい携帯電話は高いので買ってもらえなかったことはもう忘れた。

 

 

高校球児はみんなヒエラルキーの強者だということを忘れるな。

 

 

 

郵便ポスト

街中にあるもの、文字、人間の特徴性質、などなんでもに当てはまるものなんですが、初めてそのものを認識するまでは全く気がつかないのに、そのものを知った瞬間に世の中がそれで溢れ出すという経験があるとおもう。

具体例に移ろう、説明が下手すぎた。

わたしの場合それを初めて経験したのをよく覚えている。小学校のときだ。色鬼をしたとき。もちろん幼稚園生の頃にも色鬼があったが、あの頃は幼稚園の中を探すにすぎなかった、遊具の一部やクレヨン、先生の服、帽子、なとなど。だが小学生の放課後は自由だ。街へ繰り出す(当方真面目小学生だったので校区外には出ない)。赤!と叫んだのでみんながバッと散って、探す。赤いものが本当になくて、家の方まで探しに行って、ふっと交番の前に郵便ポストがあるのを見つけた。赤やん。と思った。

その日からしばらくはずっとどこを通っても郵便ポストが目につく。車の窓から見える、ポストをいちいち振り返って確かめた。おばあちゃんの家に行くまでの10分の間にずいぶんたくさんあるじゃないかと、驚いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

これがずいぶん前に書いた記事で、なんの話につなげようとしたのか全く思い出せない。発信者たる自覚を持って精神を鎮めるためだけに公開します。おやすみなさい。

 

 

記憶のあいまいさ、日常の速さ、余裕のなさ

 

本当に久しぶりに何にも追われていない平日なので、雑務をやりがてら、ツイッターを見ながら、以前に自分が書いた記事を読み返した。以前というが先月分の記事に過ぎない。書いた覚えのない記事ばかりだ。あたまのなかを占めていることも、ぺっと吐き出してしまえば、忘れてしまうようだ。書いているときには魂の叫びを文字に~といったような激しい感情の日もあるのに。特に覚えていなかったのは、この記事だ。

 

gomitamechan.hatenablog.jp

 たしかに、この試みをした覚えはある。自分以外の人間を主人公に据え、想像して、物語を書いてみようと思ったのだ。だが書いた内容が頭の間の中に全く残っていなかった。つまりは読んだ人もなんとも思わないような記事を貼り付けてしまったことになる!オーマイガー。誰が待っているわけでもないだろうけど、しょうもない、読む価値のない文章を見せびらかすのもなあ、という、生産者意識のようなものが生まれてきた。自己満足小説にいいも悪いもないから、せめて自分で面白いと思う文を書けるようになりたいなあ。

 

先にも少し書いたが、最近毎週のレポート課題、アルバイト、などなどに追われ、一日を冷静に評価する機会すら持てないままに毎日を過ごしている。これは本当によくないなあと、しんどさばかりがたまっていた。幸いにも今週は三連休、ミシンをして遊びたいので(趣味です)今日頑張ってレポートを終わらせようと思う。この土日月で、夏のパジャマを作り上げる。というつもり。話がそれたが、アルバイトは学生のミニ負担でしかないので必要に迫られない限りはやらないほうがいい。それはそうで、大学とバイトは二重労働だから。2018年上半期は、週6アルバイトで月に15万平均稼いだ私だが、アルバイト業からの撤退を決意した。もっと勉強しないと、と、焦る焦る気持ちが確実に心臓を早死にへと導いている。のんびりやれる家庭教師だけ続けようと思っていたら、昨日突然、私立の受験をやめることにしたので今日で終わりでお願いします。的なことを言われ、ほぼ無職になってしまった。これで、塾のバイトをやめる予定がおじゃん。悲しかった。

 

自分で管理できる予定がすくないことが一番心に負担をかけるということが、この五年くらいでわかった自分の性質の一つなので、これは守ってあげたい。話は重複して、課題、アルバイトにエネルギーを注がざるを得ない状況下で、趣味に割く時間を確保することがたいへんに苦しい。はっきり言って面倒だと感じる。私の趣味といえば、食事、睡眠、オタク業、読書、ミシン、などが最近力を入れているものだが、まず食事が億劫だ。睡眠は、横になるだけなので、一番これに時間を使うことになる。この二週間は1日1回の食事がやっとだ。面倒で仕方がない、体重が減ると悪循環なので避けたいが、なかなかうまくもいかない。徐々にがんばりたい。この二つで手一杯なので、他の趣味に着手できる日はまだまだ遠そうだ。周りを見ていると、元気なオタクばかりなのでびっくりする。どこにそんな気力があるんだ。わたしは本当はそんなにオタクじゃないのかもしれない。そしてまた、どこにも帰属意識を持てなくなって、布団という個人空間の住人に戻る。以下繰り返し。

 

頭を整理しようと思ったけど、あまりうまくいかなかった例として、この記事も残してあげることにした。