新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

処理

 

人に根暗そうだと言われた。根暗そうなのに案外外に行くんだねと言われた。その人からのその評価で少しも私の気持ちは少しも振れなくて、好意を抱いている人から言われたんだけれど、私は平気だった。本当は根暗ではないと思っているからなのか、本当に根暗だからなのかわからないが、変な感じ。元来悪口に対して感度が鈍いところはある。他者から与えられる限りでは、無自覚の自慢に対する僻みの強いのがもう一番すごいので。

 

そういうわけで、根暗かどうかは知らないが、暗いつながりで陰湿なところがある子供であった私を思い出した。小学1年生の時、夏休みに区の小学生が集まって行くキャンプのようなものに参加したことがあった。私の小学校からはおなじ学年では私一人しか参加者がいなくて、そこには言い知れない自由があった。ここで何をしたって日常に響かない、ここにいる誰も本当の私を知らないし、今ならなんにだってなれるんだ。まだ、ぶりっ子にはしる精神力は身についていなかった。そのキャンプでは、自分の呼び名を自分でつけることになっていて、その瞬間から私は、ひたすらに無口で感じの悪い人間になることにした。名札には当時大嫌いだった幼稚園の時の同級生の名を書いた(もう名前は忘れた)。そうすることで幼稚園生のときから続く今を捨てて新しい自分になれたように感じたんだわ。しょうもないのだが、当時の私(7)天才だろ。

 

今でも似たような手法で現在を過去に無理やりねじ込むことはよくある。今もそうしてるところだし。物事を過去にするためには何かしらの気持ちの処理が必要なのかもしれない。だから、処理するいとまを与えないように、常に新しいものを生み出し消費し続けることができたら、永遠が手に入るんだ。思い出にならない過去の代わりに延々切れない今が手に入る。きっとこれをすごくうまくできる人もいて、そういう人は毎日がずっとキラキラで、いつまでもいつまでも新品の今が続くんだろう。羨ましいんだ〜。

私は飽き性で、消費も生産も大好きだから、永遠を手に入れるにはきっとたくさんたくさんお金がないといけないんだろうな。残念ながらインプットがなければアウトプットにも限りがある、いつまでも自給自足できるだけの才能は持っていなかったから。お金さえあれば永遠が手に入るとわかっただけでも希望はあるが。

 

永遠を生きている人、是非一度会ってみたい、その人にもう一度会いたいと言われたら、心の一部くらきはキラキラになれるんだろう。

 

 

 

高校生の時分に、戦国鍋テレビという神番組のコスプレを文化祭でやった。その衣装の1つに私と私のママとで作ったズボンがあって、それはゆるい素材ですので、いま私のパジャマになっていたんだけど、今日ふと気がついたら、股のところに穴が空いていた。きちんと丁寧に重ねて縫ったりしてなかったから当然なんだが、思い出に穴が空いてしまった。そのあたりの記憶も思い出したくない思い出の箱に飛んで行ってしまったかもしれない。

考え始めると思い出はだいたい穴だらけで、誰とどこに行ったのか、自分のその時の感情が何だったのか、なんていうことはほとんど覚えてないし、ただ、どこそこへ行ったことがある、ないというようなon offのみで表すことができることしかずーっと長くは覚えていられないんだ。私にとっては、いつだって今が一番強くて、これは感情的な話でなくて、経験的事実で、たとえ今と似たような状況を過去に経験していたとしても、今が過去に流れていかない限り、私は今と過去を客観的に比べることがとてもとても苦手だということ、おととい気がついた。

思考を必要としない作業の方が過去に流れていくのが早い。たとえばスキーなんて、久しぶりに乗ると初めて乗ったみたいに怖くて、ビクビクするが、2、3回滑り下りればその2、3回はすぐに過去になって、過去と過去を比較することは容易なので2年前と比べて修正をかけて楽々たのしく滑れるようになる。

思考を追わなくちゃいけないものはずっとずーっと難しくて、何年も経たないと過去にならないことだって多い。私は多分に感情的なのかもしれない。客観的事実だけを進行形の今から取り出すことが苦手だ。自分だけじゃなくて相手の感情も取り出せない。そもそも相手の感情は見えるような気がしない。後から考えてなるべく近しいような答えをつけてみることはしているけど、モチベーションが見つけられないことも多い。

いろいろなことの理由を教えてほしい。たとえば感情が理由になりうるのかとか。本能的欲求を満たすために論理的アプローチを施すとしたらそれは理性的な行動に帰属されるのだろうか。やっぱあかんのかなあ。現実と頭の中、乖離していないのも危うい。

 

私が死んだら、この世界は無くなるんだなっていうことが、最近わかったこと。

 

 

 

 

濃度

 

最近、人間関係について、いろいろ考えることが多い。いまは、精神に余裕がある。たぶん毎週の課題を適度にこなすことで頻繁に小さなゴールを経験できているから。この小さなゴールを自分で生成消費できるようになればきっともっと自由になれるんだろうな。何歳になってもこんなこと言ってそうで若干悲しい。

 

私の生活の中で、気の置けない数名の友人たち、もしくは恋人と過ごす時間の合計がたとえば1ヶ月のうち一定を超えると、人に会うために超えなければいけないエネルギーがすごくすごく高くなる(体感)。人に会う、の示すところがまあまあガバガバで、大学に行って、授業に出席する、バイト先に行き、不特定多数に会うこともそれに含まれる。これがよくないんだ。学生実験に出てバイトしてもうお腹いっぱい、誰にも会いたくない。

 

なんかいろいろ書こうと思ったけど下書きに放置してたら忘れたのでこのままでいいわ。

 

 

消費

 

世の中には、3種類のビッチがいるとわかった。消費されるビッチと、消費するビッチと、消費させるビッチの三種類で、わたしは、真ん中と後ろのビッチは許せると思う。

 

基本的にビッチは見てて面白いので好きですが、消費されるビッチは馬鹿みたいだなと思う。自分本体を商品にして叩き売るのは愚かしいと感じる。せめて消費させる側にまでは登ったら?と、なる。消費させる側はまだある程度までターゲットとする消費者を絞っていて、望ましい感じがする。

いちばんいいのは消費するビッチ、これはある種の憧れすら抱くところがある。性行為は女性が男性を消費するという立場を手に入れられる唯一のチャンスといってもいいのではないか。流石にわたしの想像力が乏しいか?恋愛は対等な立場推奨派、というかそもそも恋愛に商品価値を持ち込むことを良しとしない立場に固執する純愛厨なので、恋愛は相手を消費するようなものではいけない。結婚は、女性が男性を消費する手段の1つではあるけれども、そういう立場を手に入れるためには結局努力が必要だし、相手に対して真摯に対応することは不可避だ。言い換えると現実的にはあまり取りたくない対応とも言えるし、そういう結婚は虚無っぽい。

 

 

消費するビッチは自ら選択的にポジティブな意思を持って気持ちの上では一方的に男性を消費するから強いと思う。お手軽感もある(知らんけど)。童貞筆下ろしモノのエロ漫画とかそういう感じやん。あれはあれでキモいけど。

 

少しナンパされただけで生身を消費されたような気持ちになってキツイので、男の人もゲイの人から性的に見られて消費される気持ちを味わえば。消費者にしかなれない男性が多いことは哀れだけど事実だし実際心からかわいそうだなとは思うけど、よそでやってくれ。

 

わたしは消費者にはならないので、すれ違ってもナンパしてこないでくれよな。

 

10ヶ月

 

これだけの時間を待たなければ出産できないの、完全に欠陥としか言いようがない、体外で赤ちゃんをすくすく育てる方法、早く開発されてほしい。

赤ちゃんが欲しかったらずっと何もできなくなるなんて耐えられない、22歳で大学行きながら、この先大学院生の間も赤ちゃんが作れないとは結構信じられない。それでいてそのことで自分に欠陥を感じることが必定であることも理不尽だし、女に生まれたアドが専業主婦になっても世間から白い目で見られないこと以外に全くなくて本当に人生お先が真っ暗である。

出産の喜びは母にしか味わえないというがそれがなんとなるか、そんなもの味わえなくとも構わないから、毎月の気分の浮き沈みを取っ払って、無責任に性行為して、好き勝手に就職して失業して離婚する権利があったほうがよっぽどよかった。両親を肉体の恐怖で支配しうる権利も欲しかった。

 

女としての人生を完全には肯定できないままでいるので、やはり時々こういう負の感情が顔を出す。きっと生まれるとしたら子供は男の子でないと可哀想で見ていられないだろう。

 

いつまでも自分をかわいそうだと思っているのも惨めに違いないのだが、実際そうだからやめられない。女は搾取される側であり常に肉体的恐怖に怯え、賞味期限切れにならないようにメンテナンスをし、消費される時を待ち続ける人生がデフォルトなんだ。本当にバカみたいで、見返りにいくらものお金を求めたって時間はお金で買えないものなんだからお釣りが出るわけもないし、劣等感は増えるし、女の子なのに珍しいね、とかいうふざけた感想は金輪際聞きたくない。貴様がクソなんじゃ。

 

早く女に生まれてよかったって思わせてくれ、でないと人生が終わる方が先や。