新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

別れ

 

およそ三年間付き合った彼氏とお別れをした。自分からお別れをしようと言った。弱い人間なので手紙で告げてしまいました。はっきり言って人生で一番頑張ったんやけどな。

 

100人いたら100人が、幸せになったらいいのにと願う。自分以外の人間は、誰も、不幸になってほしくないと、心からそう思う。他者と付き合うにせよ、友人関係になるにせよ、一定の距離以上に人間と近づくことはいつでも恐怖のタネになる。他人を不幸へと自分が誘導してしまうようなことは絶対に避けたいと、いうのが望みだ。他人の行動に自分が影響を与えるかもしれないことが極端にこわい。自分は他人から影響を受けまくっているくせに、他人に影響を与えないようにしたいと努めることがどれくらい無価値かということは重々承知しているし、他人にそんなに影響を与えることなんてそうそうないので、自意識過剰だということもわかってる。それでも、他人に対してこうすべきだ、こうあるべきだ、という言い方や、さらにはこうしてほしい。というように要求することが本当に怖い。これらを避けることは相手への不誠実になるのだろうか。自分の要求を伝えないことは相手のためにならないのか。これがずっとわからない。色々誤魔化そうとはしているが、結局はわたしがチキンなだけなんだし。

 

別れに際して、こちらに楽しかった、ありがとうという言葉を投げることのできる人とお付き合いできたこと、とても幸運に思う。絶対に幸せになってほしい。この関係が自分の独り相撲出なかったことがはっきりと分かって一種の満足感さえある。卒業式の日のような寂しさと、自分の選択に対する自信のなさからくる、不安とが絶え間なく襲ってくるが、きっと穏やかになる。

 

今回の件で大いに感動したのが、同居人筆頭に友人の共感能力についてだ。いじいじしているわたしを見て、面倒臭がるでもなく、まあそういう局面にいれば、そうなるよねと、過去の自分の経験や、想像、そのようなものを組み合わせて、わたしの気持ちを想像できる人たちがすごいと思った。自分にできないことをまた1つ見つけた。

 

 

 

無意識?の保険

無意識にしてしまったことのなかで一番いやだったのは、トイレに行ったときに絆創膏を巻いている方の手でトイレットペーパーを扱ってしまったこと。後悔はないが不快感。

 

私は自分の行動に後悔することがほとんど無い。後悔しているかのように周りに吹聴することは多いがそれは人間の形を保つためのポーズに過ぎない。実際には何でもしゃあないな~と、寝て起きれば忘れるトリ頭なので(寝なくてもたいてい忘れる)。思い出してその当時の気分になって落ち込むことはあるがそれも一種の自傷行為であって、行動そのものを心の底から悔やんだのは記憶していない。

 

なんか部屋が納豆のにおい。私の無意識を支配するメジャーなものは、やりたくないことから逃げたい、というものである。やりたくないことが本当にできない。無意識のうちにそのやりたくないことをやることが私にとって不自然になるように、行動を選択しているようだ。この先100日のうちにどうしてもやりたくないことがあるだろう。すると私は、そのやりたくないことが起こらなかった場合の未来に必要なものを100日間毎日準備する。それこそやりたくないことをやる10秒前でもそうする。そうしていることに気がついたのもほんの数日前のことだ。かなり面白い。きっと周りの人は私がその行動をとるなんて微塵も予感しないだろう。私も予感していないもの。自分でもやりたくないから、やるそのときまでそのことは頭の外にある。そして突然に予定を立てて、決行。破壊、フォロー、何事も起こらなかったことにしよう。わたしが悪くないことだけはみとめてください。

 

現実がぶつ切りだ、いつからかというと物心ついてからずーっとそうだったのかもしれないが、最近は一日がいつ終わったのかもずっとわからないし、昨日が一昨日なのか、先週が明日なのか、なにもかもがちぐはぐに、朝が夜で、昼が夜で、夕方にしたことをじつは昨日の朝にしていて、つなぎ方も適当だし、自分のしたことなんて一つも覚えていない。昨日書いたブログの内容も、全く思い出せないし、たまに読み返す自分の文字も全くなじみがない。私はどこかをぐるぐる回っているんですよと、言われた方がまだましだ。どうして昨日至った結論と、その道筋が今日みえないのか。毎回忘れて、毎回考えて、毎会落ち込んで、そんなことだから自分の意見に自身がない。すこしは、まともな人間に近づけていると思っていたけど、結局だめな奴で、観念のかたちがもにゃもにゃで、一般の形に見えるように自分を変形して、いるから、ずっとまともになれない。きっとなりたくないんだと思う。自堕落であろうとなかろうと、好きなようにしかしたくないんだもの仕方ない。

 

この数ヶ月、自分の脳内と現実との区別がつかなくなってきているような気がしてならない。こわい。

 

出涸らし

 

紅茶ってどこまで出すのがちょうどいいのかしら、と言う問題が今のわたしの全てなのです。自分がなにを望んでいるのか、本当の気持ちがどこにあるのか全くもうわからないのです。だが現実のわたし自身はもしかしたらもうすでに108番茶くらいまで出た後で、もう残ってるのは出涸らしだけ、なんだよって客観的に見て感じる。と、ともに、そんなことないよって、まだ美味しいよって思う自分もいる。感情の区別がつかない。普段から自分の感情のセンサーが大振り過ぎたことを恨む。嫌い以外を全て好きだと一括りにしてしまう粗雑な感性が憎い。まだわたしは小学生の頃からなにも変わってないんだなって、わかってきた。やっぱり頭でっかちの、周りを傷つける人間。周りの人間をいくら感情的だ本能的だと馬鹿にしていたって、自分が理性的であろうとすることによって傷つくであろう人間を守りたいというエゴで結局その人を傷つけ続けてきたかもしれないことに気づいた。愚かしい限りで、ダメ。もう全ての人間との関係を断ちたい。一度リセットして、また始めたい。生まれるところからやり直して、誰も傷つけないように注意したい。そうして自分が人にとっての害でないことを感じながら育ちたい。目覚める度に昨日の決断をもう一度練り直すチキンさをはやく捨てたい。自分の成長のために、他者を傷つけることを良かれと思いたい。

 

 

自分の境界

自分の興味の及ぶ範囲を際限なく広げて行きたいと、思うか。私は自分はそう思っていると、思っていた。何にでも興味がある、なんでも一度はやってみる、そんな人間であることが、理想なのだと信じている。かつては実際にそのような人間であったと自分は感じていて、最近はどんどん興味の幅が狭くなる自分が嫌で、努めて色々なものに手を出すようにしている。でももしかしたら私はもともとそこまで興味の幅が広い人間ではなくて、高校生の頃までに自分が歩ける世界にたまたま興味のあるものがたくさんあって、勘違いしていただけなんじゃないかなという、怖い事実っぽいものに思い当たってしまった。怖い。

 

昨日電話していて、1人が俺は女になりたいとしきりに言った。わかるよ。見た目に気を使いさえすれば、場所を選ばなければ見た目に気を使わずとも、若ささえあれば自分を切り売りすることが容易だから。その分若さを持て余すし、実際買い手が余っているような、状態を認識することも多くて、無感動に消費されてる感覚が無慈悲に自分の精神を迫害する。そして、通常のエンドは30歳頃にはやってくるのではないか。その後の人生に、何が心の拠り所となりうるのか。何もないような気がしてならず、不安に駆られる。

 

私は男になりたかった。最初から何もないけど何もなくならない。まあきっと私が男になったら性欲に、苦しむんだろうということは想像に難くない。ポップな性欲魔神にはなれそうにない。

 

私は果てしなく自分の境界を感じなくなるまで薄い薄い人間になりたい。

 

切り取り売買

 

欲しいものがあった時、それを手に入れるために、それまでにどれだけの期間、どれだけのレベルのものを我慢していようと、あるいは、それを手に入れるために、それまでどれくらい努力していようとも、簡単に全てを捨ててしまうことがよくある。私は、その欲しいものの持つ潜在的な魅力に相当する努力、我慢を超えた時に、欲しかったものの魅力が失われて行くんだと、感じているのだけど、それは果たしてそうなのか。本当は欲しいけど手に入りそうにないものを諦めるための優しい優しい精神作用なんじゃないのか。答えはない、しんどい。

 

友人たちと電話をした。23時から4時間もずーっと電話していた。たわいのない話をして、クソみたいな下ネタに笑い、楽しかった。すごく楽しかった。だけどある時突然にガクッと落ちた。楽しい印象は残ったままなんだけど、突然に重いのがのった。3人で話していた。1人は病まない、明るい、聖人だ彼は。もう1人は、私と同じような方向で病む人間。限りなく近しいところに傷があるんだろう。私は自分の傷えぐり精神自傷行為大好きなので、存分に最近見つけた傷を見せびらかして帰ってきた、心臓の下のところが冷たくて、ありえん気持ちがいい。聖人は唐突に落ち込み出した2人を目の前にあたふたした。もう1人は口数が極端に減った。

 

でも似たような、似たような人っているんだなと思ったら、自分の取るに足りなさを実感したような気がする。それでもまだ自分には何か特別がのってるはずだと、(直感的に)理解したままの自分がいる。傷の近いオタクが男でよかった、と心から思う。女だったら現実的すぎて、自分がとられたみたいになってしんどかったと思うから。