新卒女雑記録

22時ちょうど 東京発

レモンのチョコレートが好きです

 

恋人ができれば、21になるが未だ人を好いたことのない私ですが、その先をあれこれと想像してみることがままある。世に蔓延る言葉に当てはめれば私は草食女子だ。男友達がいないわけではないし、大学生になってからは2名ほど、好意を寄せてくれた男性がいたが、その誠実さ(?)に確かに応えることができるほどの恋を見つけられずなんとなくそのままにしておくと、有耶無耶のうちに彼らは何もなかったことにしてくれた。

 

恋人ができれば、二人にしかわからないようなぼんやりとした幸せにいつも照れてにこにこと笑っていたい。

恋人ができれば、ご飯を食べる時のちょっとした仕草にも気を遣って、ぎごちなくヘラヘラしようか。

恋人ができれば、歩幅を合わせて小走りで、彼の後ろをついて行くだろうし、

恋人ができれば、この前焼いたクッキーをまた焼いて、やるじゃないかと褒められたい。

恋人ができればーーー私の妹には彼氏がいる!

 

彼女は今16歳なのだ。同い年の恋人と彼女の間には、どのような好きがあるのだろうか。

彼女は恋人のことを心配して心を絞られることがあるのだろうか。高めの声でおはようを作ったり、遠目に彼を見つければ可愛らしく駆け寄ったりするのだろうか。お弁当を作っていたところを見た。

精神上のつながりが、はっきりと感じられているのだろうか。毎日好きだと電話をかけるの?肉体の繋がりに思考を向けるのは流石に妹のこととはいえ、憚られようか。

好きを、発音する時、彼女の唇はどのような意志のもとに動くのだろう。彼を喜ばせたいがためだろうか、喉元にまで溢れた精神の高揚を言葉にすればそれにしかならないという、それなのか。それともごっこ遊び的に彼を好きな自分が好きなのか。オウム返しに彼の言葉をはね返しているのか。

 

経験していないことなのでわからない。だがどれをとっても、大人的な風格を感じる。どれも私がしたくないことではなく、できないことなのだから。人からプレゼントをもらった時でさえ、相手に同じ行為を返すことが怖かった私にはハードルが高い。渡せなかったプレゼントを、家族の誕生日に転用していることは、家族に知られてはいけない秘密の一つだ。

 

ツンとして静かな意識

 

 

気分が落ち込んだ時に、電話をかけたい相手がいること、寂しいと思った時に会いに行きたい相手がいること、自分の中に育てている感情たちの中で、わずかに、社会的にも生きているものの例であるだろう。そしてそれらが即座に実行され、素敵な時間がすぐに手に入ることが今のわたしにとって重要なことであり、嬉しいことである。これは疑いようがありません。

自分の社会をどんどん狭くして行っている自覚があって、機能としての世界の中心はもう9割くらい先に述べたような人たちの上に乗って回っており、限られた世界の中で私は自分の鼓動を存分に堪能している。例えば、しばらく息を止めれば拍はどんどん細かくなり、頰は上気し、喉が乾く。

しかし血の通った心が私にも備わっていたというのは実際には勘違いでしょう。あなたが何気なくいう、励ましの言葉なのだろうか。元気なあなたが一番好き、とかいう呪いめいた一言で冷たく固まり、さらには凍ってさえしまうような具合なのだから。

 

私のことを好きだと言うことが恐ろしくもなんともないのなら、本当の私を認識しようと努めてください。私が私の本質として誇っている部分を評価してくださいませんか。それは冷たさではなく、ツンととがっている、静かな意識。その先に光る烈しさを核とした赤を超えた熱量が備わっていますから、壊さぬようにそっと指を沿わせてくれることは叶わないでしょうか。指が傷ついてしまう恐れがあると思っているでしょうが、きっとそうはなりません。むしろ壊れることを恐れているのは私の方なのです。いつもいつも、折れないように曲がらないようにさらに伸ばして行くことのみに注力しているくらいです。

 

周りの人たちと異なる性質を持つことを誇っているわけではないということだけは勘違いのないようにお願いします。誰しも皆はじめは同じように感じていたのです。親指を口に入れたことのない赤ん坊がいないように。ただいつからかそれが恥ずべき行為だと、諭されて素直に受け入れることができたのかが違いなのです。指を口に吸う理由をいつまでもいつまでも探し続ける苦悩を意識の一部に置き据えて、苛々として眺める愉悦を理解していることが私の誇りなのです。

 

 

選択と決定

 

嫌なものが目の前に現れたらどうやって避けようとするだろうか。例えば道の真ん中に、下半身裸体のホームレスがいたら。目を背けて脇を足早に通り抜ける、あるいは一本筋をずらし回り道をする、あるいは家に帰る、あるいは通報する。色々な方法で対処できるだろう、どの方法を選択するかは彼のことをどれくらい諦めているか、どの程度嫌悪しているか、あるいは自分の本来の目的地がどれくらい大事なのかによるだろう。この状況はかつて経験されたもので、わたしは脇を通り抜けて学校へ行った。当時は学校に間に合うことが優先権を持っていたのです。

 

毎日色々なことを選択しているなと思うのです。ごはんを食べるか食べないか、食べるなら何にしようか、何時に起きるのか、笑いかけようか無視しようか。そんなことに毎日頭を悩ませていることが、馬鹿馬鹿しいと感じる。毎週の予定を固定にして、何も確認せずに惰性で日常を送れるようになればどれだけ他の些細なことたちに注意を払えるだろう。そうすれば人生がずっとずっと輝くだろう。こどもの時分を思い出せば、そういうことなのだ。生活に関わる細々としたものにのっける注意を母へ放り投げていたからあんなにもたくさんのものに鋭敏な目を向け、さらには、はたらきかけることができたのだ。今では本を読む時間さえ、自分で生み出さねばならない。三度の食事を怠らなかった日なんて何ヶ月も前だ。

 

きちんと、自分のことだけを考えることができるように訓練をしようかと最近思う。周りにかかずらっていられるほどの余裕はないのだ。心の冷たいやつだと思われやしないかと、いつもビクビクしているだけなのだ。

 

 

 

サムデイインザレイン

 

どうも古のオタクです。

 

今日は17万円を使った。pythonの入門書を買いました。紫陽花の花を触った。紫陽花の花はおよそ考える花とは違う感覚を有していて、指先で滑り、全方位に攻撃的で涼しい。明日は早起きしてレポートを印刷して仕上げるからね。

 

概念的なことが捉えられなくなってきた。俗っぽさに拍車がかかり、足の裏がかゆい。寝て動いて回復することを望む。

 

ソリタリ

 

周りの人たちに恵まれていると思う、わたしのことを気にかけてくれる人、たくさんいると思う。それでもやはり毎日さみしいと思うし、そうおもうことを辛いと感じる。さみしすぎて死んでしまいたいことがある。自分がまだまだやれるはずだと言うことを信じなければ、このさびしさはなくなるのかもと思う時もあるが、その保証もない。

最近のわたしに見られる傾向として、さびしさを周囲への怒りに変えてしまうことがある。それがとてつもなく嫌だ。

 

さびしさは心の中に隠して、生きていくのが正式だといえよう。自分のさびしさを埋めるために私をつかうのはいいんだけれど、露骨にそれを感じさせないでほしい。そこはうまくやるのがいい。子供みたいに感情を伝えることは自由なんだけど、せめてその全てを私が受け入れる前提になっていることのおかしさを認めてください。そして私のさびしさを迎えにきてほしい。

 

多分実際にはお互い歩み寄っているんだけど、私が私がって主張ばかりしてしまうことが一番だめなところなんだと思う。開き直る宗教やめます。てはじめにツイッターとか言う軽率な自己主張世界とはさよならします。