女子大生雑記録

日々の面白いこと面白くないこと

自己紹介

ふつうブログを開設したら最初の記事は自己紹介なんだよな、と他人のブログを眺めていて漸く気がつきましたのでここで自己紹介記事を一度挟ませていただきます。

私は都内某大学にて化学を学んでいます。学年は三年生、性別は女です。四年進級時に留年することがすでに確定していますので、何のあがきもせずともあと二年半は女子大学生(笑)なので、これを機にブログタイトルのほうも『女子大生雑記録』などという釣りアカウントかのようなタイトルに変更してみました。アイコンは金沢、月うさぎの里にて撮影したアンゴラウサギになります。

 

これくらいしか特筆できるようなことがらもないのですが、よろしくお願いします。

個人情報保護の意識が低いのと、情報の帰属もとを正しく見極められていないのと、その他の原因も多分あって、情報を正しい順番で文字に起こせていなかったり、個人情報だよそれ大丈夫?みたいな記事を書いてしまうこともあるかと思いますが気合い入れて読まないでください。

 

思いついたことを、思いついたときに、ちょこっと整理して書いてみようかなというだけのブログです。

 

不労収入がほしいので一流ブロガーになりたいという気持ちもあるけど。とりあえずアマゾンのアフェリエイト広告くっつけておくので、ポチポチしていただけると超感謝です(ダイレクトマーケティング)。

 

今回の広告は、私が今まで読んだ中で一番好きな本です。ぜひ読んでほしいな。この本の感想はまた今度書きたいことの一つです。

 

出涸らし

 

紅茶ってどこまで出すのがちょうどいいのかしら、と言う問題が今のわたしの全てなのです。自分がなにを望んでいるのか、本当の気持ちがどこにあるのか全くもうわからないのです。だが現実のわたし自身はもしかしたらもうすでに108番茶くらいまで出た後で、もう残ってるのは出涸らしだけ、なんだよって客観的に見て感じる。と、ともに、そんなことないよって、まだ美味しいよって思う自分もいる。感情の区別がつかない。普段から自分の感情のセンサーが大振り過ぎたことを恨む。嫌い以外を全て好きだと一括りにしてしまう粗雑な感性が憎い。まだわたしは小学生の頃からなにも変わってないんだなって、わかってきた。やっぱり頭でっかちの、周りを傷つける人間。周りの人間をいくら感情的だ本能的だと馬鹿にしていたって、自分が理性的であろうとすることによって傷つくであろう人間を守りたいというエゴで結局その人を傷つけ続けてきたかもしれないことに気づいた。愚かしい限りで、ダメ。もう全ての人間との関係を断ちたい。一度リセットして、また始めたい。生まれるところからやり直して、誰も傷つけないように注意したい。そうして自分が人にとっての害でないことを感じながら育ちたい。目覚める度に昨日の決断をもう一度練り直すチキンさをはやく捨てたい。自分の成長のために、他者を傷つけることを良かれと思いたい。

 

 

自分の境界

自分の興味の及ぶ範囲を際限なく広げて行きたいと、思うか。私は自分はそう思っていると、思っていた。何にでも興味がある、なんでも一度はやってみる、そんな人間であることが、理想なのだと信じている。かつては実際にそのような人間であったと自分は感じていて、最近はどんどん興味の幅が狭くなる自分が嫌で、努めて色々なものに手を出すようにしている。でももしかしたら私はもともとそこまで興味の幅が広い人間ではなくて、高校生の頃までに自分が歩ける世界にたまたま興味のあるものがたくさんあって、勘違いしていただけなんじゃないかなという、怖い事実っぽいものに思い当たってしまった。怖い。

 

昨日電話していて、1人が俺は女になりたいとしきりに言った。わかるよ。見た目に気を使いさえすれば、場所を選ばなければ見た目に気を使わずとも、若ささえあれば自分を切り売りすることが容易だから。その分若さを持て余すし、実際買い手が余っているような、状態を認識することも多くて、無感動に消費されてる感覚が無慈悲に自分の精神を迫害する。そして、通常のエンドは30歳頃にはやってくるのではないか。その後の人生に、何が心の拠り所となりうるのか。何もないような気がしてならず、不安に駆られる。

 

私は男になりたかった。最初から何もないけど何もなくならない。まあきっと私が男になったら性欲に、苦しむんだろうということは想像に難くない。ポップな性欲魔神にはなれそうにない。

 

私は果てしなく自分の境界を感じなくなるまで薄い薄い人間になりたい。

 

切り取り売買

 

欲しいものがあった時、それを手に入れるために、それまでにどれだけの期間、どれだけのレベルのものを我慢していようと、あるいは、それを手に入れるために、それまでどれくらい努力していようとも、簡単に全てを捨ててしまうことがよくある。私は、その欲しいものの持つ潜在的な魅力に相当する努力、我慢を超えた時に、欲しかったものの魅力が失われて行くんだと、感じているのだけど、それは果たしてそうなのか。本当は欲しいけど手に入りそうにないものを諦めるための優しい優しい精神作用なんじゃないのか。答えはない、しんどい。

 

友人たちと電話をした。23時から4時間もずーっと電話していた。たわいのない話をして、クソみたいな下ネタに笑い、楽しかった。すごく楽しかった。だけどある時突然にガクッと落ちた。楽しい印象は残ったままなんだけど、突然に重いのがのった。3人で話していた。1人は病まない、明るい、聖人だ彼は。もう1人は、私と同じような方向で病む人間。限りなく近しいところに傷があるんだろう。私は自分の傷えぐり精神自傷行為大好きなので、存分に最近見つけた傷を見せびらかして帰ってきた、心臓の下のところが冷たくて、ありえん気持ちがいい。聖人は唐突に落ち込み出した2人を目の前にあたふたした。もう1人は口数が極端に減った。

 

でも似たような、似たような人っているんだなと思ったら、自分の取るに足りなさを実感したような気がする。それでもまだ自分には何か特別がのってるはずだと、(直感的に)理解したままの自分がいる。傷の近いオタクが男でよかった、と心から思う。女だったら現実的すぎて、自分がとられたみたいになってしんどかったと思うから。

 

存在以上の価値

 

いろんなことが頭の中に浮かぶ、例えばどうしてうちの大学の門は修理したあと勾玉的なモチーフが大々的にあしらわれたのか。落し物という言葉は正しそうだけど、あ、あなたいま物落としましたよ。という日本語は正しいのか。そんな全ての問題を考えていても近頃はいつのまにかそういった全部が人間の好き嫌い問題に置き換わる。思春期なのか。

 

ある人間に対して好き、嫌いという感情を抱くことは一体どういうことなのか。全くわからない。他人の好きなところなんてあげられなくても、毎日同じ教室で顔を合わせていた同級生なんてほとんど全員好きだとおもった。今はもう目の前にいないのでなんの感情もないが、心の底から嫌いだとおもった同じクラスの人間はいなかったはずだ。たぶん。金を持っている、顔がいい、優しい、統率力があるなど、存在以外の人の要素は私にとってどれ程の魅力を持つのだろうか。その指標を私は明確にもっていない。それぞれの要素にかかる重みが簡単に変わる。その度に一番が変わって、しんどい思いをするのが嫌だ。でも自分の認知が歪んでることなんて、毎日のように感じるのにどうして自分の判断を正しいと認めることができるか?できない。開き直って、私はこういう人間です!と言い張る愚鈍さが欲しい。私はかしこすぎる。

 

なにかを考えていると、過去をスクリーニングすることが多い。今も過去に飛んでいた。いつもまず、思い出すのは母親。母親がするようなこと、炊事洗濯掃除などキチンとしていたとは思うが、親になるには精神が少女すぎる。友達に愚痴を言うように、親戚の愚痴を私に言う。中学生の娘が、おじいちゃんの葬式に行くだけで裏切者呼ばわりしてきた時には、割と傷ついたよママ。てめえが行かねえから私が行くんだよ。反抗期の子供のクソババアシネに対して死んだるわと包丁を持ち出された時には一気に冷めた。母のことを見ると自分の将来が不安でしゃあない。こんな女になるのではないかと言う不安しかない。母のようにならないために周囲を分析するようになり、今度は父のことを考える。父は事なかれ主義で、プライド星人だと言うのが最近の私の見解だ。中学生の子供から見てもはっきりするくらい、母は父のことが好きだった。母は基本的にコミュニティが狭いので(これに関しては最近改善の兆しがあり、娘としては喜ばしい)、我が家が世界の9割なのだ。そしてその9割のうちの8割が父なのだ。側から見ても健気に尽くしているように感じた。父はそれに対する見返りを与えない。母がヒステリックに騒いだ時、父が母を女的に感じているようなそぶりを一瞬、一言熱量のあるように聞こえる言葉を(嘘でも)投げてやれば場が収まることはもう全員がわかっているのに、それができない。なんで?と一度聞いたら、なんでかわからんと言っていたのでプライドが許さない的なやつなんやと思われる。そして、知らん顔しておきながら、母のヒステリーに耐えきれなくなったら手をあげる。しち面倒。昨年夏帰省した際に、父の口から母のことを面倒に思う、的なことを聞かされた娘は自己の存在を否定されたように感じ、やや父を憎むようになった。母を哀れむようになった。自分が女なんだなと感じて気分が落ち込んだ。

 

家庭教師のアルバイトをしているので、他人のうちに上がることも多いのだが、どの家もうちの家族とは違う、まあ当然なんだけど。この家のママは激昂しても包丁なんて取り出さないし、娘を裏切者とか色気付きやがってとか言って辱めることもないんだろうなということが推察される。それで多分世の中の大抵のお家ってそうなんじゃないかしらということに気がついた。自分の認知の歪みを確認した。わたしが普通として送っていた日常は他人から見たら眉をひそめるようなシロモノだったのかもしれない。そしてまた結婚が怖くなる。きっと相手が立派であればあるほどビビって逃げ出したくなるんだろうな。

 

結婚といえば、理性的な人間たることを人生の主軸に据えているわたしが、子供を作りたいと考えることは愚かしいのかも、ということに気がつきはじめた。コントロールできない自分の分身を世に解き放つことは恐ろしいし、精神に良くないと思う。まずそもそも子孫を残すという行為がありえん本能的で気持ち悪くないですか。

 

おととい同居人ちゃんに、君は中学の時などに比べて言葉に感情を乗せることが上手くなったと言われた。確かにそうだとおもった。嘘をつくのも上手くなったんだろう。

 

少女漫画定期購読

 

いつ頃から月刊誌を買うのをやめたのかなーとふと考えた。人生で最初に買った雑誌は多分幼稚園。パーパーヤーパパヤーパーパーヤー!幼稚園の1月号は小学館!っていうCM、どれみちゃんの時間にやってたのでそれを買ってもらったはず。今はもう廃刊なんだっけか。たぶん幼稚園の付録で一番覚えてるが、なんか、ピンクのピンポン球みたいなのがついててそれに目と口と手のシールを貼ってカービィにして遊ぶやつ。めっちゃ遊んだ。

 

その次に買い始めたのは、ちゃおだな。小3くらいまで妹と毎月交代ばんこに買ってた記憶がある。いわおかめめ八神千歳もりちかこが大好きだった。なんやかんやで和央明と中原杏も好きだよ。チャームエンジェルが本当に好きだった。たしかチャームエンジェル完結前にわたしは少コミへと乗り換えた。ちゃおは420円やけど少コミは300円だったんよな。小3か4途中から6年くらいまでは少コミ買ってた。同級生で仲よかった子が少コミに移ったのもなかなか大きなきっかけだった。その子とは漫画をトレースしていつも遊んでた。少コミは今思えばなかなかにエロなんだけど当時はエロだとわかってなかった。しかも月刊のちゃおと違って、少コミは隔週発行だったおかげで無事わたしのオタク加速のための下地が完成したように思う。

 

オタク(予備生)中学生になる。地元の中学に行かなかったので、少コミ仲間いなくなり買うのをやめる。しばらく事無く暮らすものの、ついに週刊少年ジャンプに出会う。付録の付いていない雑誌は立ち読みができるってことを知る。そしてついに出会う、悪魔の生み出した名作家庭教師ヒットマンリボーン。腐女子ワールドに飛び込む。山雀、山獄など今聞いても胸が震えるワードである…。未来編に入ってからのスパツナとかもめっちゃ好きだよ。ここからしばらく未来編が終わるあたりまで、リボーンを楽しむ。中2、ハルヒにであう。現在の同居人とであう、オタク何故かにわかにコミュ障を爆発させ同居人に熱烈アプローチ、2人でオタク爆発させる(文字通り爆発していた)。

そこからはもうなにこれ見境なしにオタクする時期が続いた。

 

 などということを本日のツイッタートレンド1位、古キョンを目にしてから思い出してみた。

 

でも今思えば始まりが少女漫画だったのは幸運だな。少年漫画から入っていたらたぶん今もこじらせてたんだろなって気がする。少女漫画、今読むと好きになるきっかけちょろすぎだろという感じだけど、これはかなり教科書的には優秀で、まともなやつをちゃんと読んでると、どのような行動を示す男性を好きになるのが良いのか悪いのかということをなかなかに考えさせられる、その当時当時のレベルでだけど。

そう言われるとやはり大人になったら大人の対応もどこかのタイミングで文献から学ぶ必要があるんだなって気持ちになった。経験が補うような範囲ってたかが知れているし私にはあわない。論理的説明と図の付いた本が一冊あればそれでだいたい満足なんだけど。お化粧に関しては神本に出会えたので解決したね。次は服装について学ばせてほしい。

 

 

長いものはちぎれる

 

他人の言動で日々歪められて行くわたしの認知。わたし自身が汚す思考の泉。好意的にみている人間の言うことを真に受けすぎているのか。あるいは、誰の口から出た言葉でも等しいか。

 圧倒的な魅力があるのは、それがわたしの信頼を十分に勝ち取っているに同じで、小さな偽りに気がついた途端に憧れは恐怖に変わるのだ。

 

私はこれのどこをどのような方法で、愛していたのか思い出せない。当然であり、信じられないような心持ちもする。今までわからなかった欠点がわんさか出て来て、それをもう捨てずにいることが耐え難いまでになる。いっそ地震が来てその棚から落ちて割れてくれ、取り込む時に突起に引っかかってちぎれてくれ、何かの拍子にコーヒーを被ってくれ、私はヘタレなので相手を捨てるに足る理由が現れるのをじっと待つのである。物が増えるんや。

 

人間関係についても同じ、小さな嘘でもそれがわたしのクルーシャルなところを掠めていればもう怖いのだ。だがその欠点を詰めて相手を切ることは悲しくて、怖い。自分の認知の基準を自分で書き換えることが怖くて、それが正しいと言う保証がなくて駄目。何もできない。相手が急にわたしのことを嫌いになって離れていくこと、または物理的困難により接触不可能になることを願うようになる。嫌われる努力もできない、ハピネス魔界パワーがはたらいて、相手がわたしのことを狂ったように憎む日が来ることを信じるだけである。そしてそのうちに偶然その相手と会ってしまったら、トリ頭ことわたしは相手との絶縁を想像し心を縮ませた夜なんてすっかり忘れていて、普通に話して、楽しむ。何ならそもそも喧嘩すらできていないのでハナから相手には何も影響がない 。ある時あたまの整理整頓を間違えたらまた、怖くなって逃げ出したくなる、逃げられない、そのうちに出会う、この繰り返し。わたしの子供らしい忘れっぽさが、わたしの社会性をかろうじて保っている。